【小説】散ることの無い桜をあなたに。 - 無色【現代ファンタジー】
- 序 -
桜は儚い。全く、春は恐ろしい季節です。
- 本篇 -
「なぁ、春原」
「なんですか先輩」
「桜はなぜすぐに散ってしまうんだと思う?」
客と待ち合わせをしている店へ向かっている車内で、新人社員の春原(すのはら)は先輩の菜花(なばな)にそう問いかけられた。
春原は窓の外の、車が過ぎ去るだけのつまらない景色を眺めながら、そんなことわかるわけが無いだろうと内心舌打ちをしていた。
春原にとって自分の教育係になった菜花は不思議な人間だった。どうも理解できないと言うか、仕事はできるし説明もわかりやすいのに業務外の話題が突拍子もないことばかり。天然というのか、変人というのか……それに、気を抜くと惹き込まれる独特な雰囲気を纏っている。ともかく自分が今までに出会ってこなかったタイプの人間だった。嫌いじゃないしむしろ好ましいと思うが、相手をするのは少し面倒くさい。よって春原は今まで何を言われても適当に流してきた。そして今回も。
「さぁ、なんでなんすかね? 答えはなんなんすか?」
菜花は春原がどんなに適当なことを言っても怒らなかった。だからこれが1番楽で正解なはずだ。
「答えか……ないよ」
「え?」
「だから、ない」
「えっ、答えのない問題を俺に出したんすか? うわぁ、だりぃっすよパイセン」
げ、という顔をして菜花をじとっと見つめても、菜花はニッコリ笑顔を浮かべたまま前を向くだけである。面倒くさいに付け加えてダルい先輩だ。はぁ、とため息をついた後、少しの間無言の空間が続いて、春原がスマホを弄り始めた時、菜花は口を開いた。
「でも、俺の思う答えはあるよ」
そういった菜花は先程と何も変わらないように見えるのに、ゆるかった雰囲気だけは変わり、静かに煌めく水面のような鋭さを纏っていた。
それに密かに息を飲みつつも、春原は何も気付いていないかのように振舞った。こういったとき突いて出るのは蛇だけだということを今までの人生でよく学んできているのだ。
「はぁ、で? 答えとは」
問いかけたのはタイミングよく赤信号。
菜花は春原を見つめて1度目を瞑り、何かを飲み込むようにしてまた目を開ける。
「ふふ、それを教える前に……我社のキャッチコピーちゃんと覚えてるか? もう後1分もしたらお店つくから」
おや、と春原は内心首を傾げる。雰囲気が戻った。この人は本当にスイッチが分からない。
「もちろん覚えてますよ、新人だからってもう3ヶ月は働いてんですから舐めてもらっちゃ困るっす」
「それじゃあ我社のキャッチコピーをどうぞ!」
手でビシッとこちらを指されて、なんだか発表のような緊張感が生まれる。気恥ずかしくてコホンとひとつ咳払いをこぼし、胸を張りピッと指を立ててキャッチコピーを口にする。
──────散ることの無い桜をあなたに。
「ですよね?」
「そう、よく出来たね。偉いよ、このパインアメをあげよう」
「ハハ、いらねっす。相変わらず嗜好品の趣味がおばあちゃんすね」
菜花は好きなものが昭和というか、好物が最中や羊羹なのをはじめ、趣味は編み物、家では自家製の漬物を漬けているなど挙げればキリがないほどおばあちゃん味が強い。
「仕方ないだろ? 俺おばあちゃん子だったんだよ、両親早く死んじゃったしな」
「それは、なんかすんません」
「いや別にいい、2人とも幸せなまま逝ったんだから」
春原が覗き見た菜花の表情は安らかだったが何の感情も読み取ることは出来なかった。何を考えているのだろうか。なんだかまたも面倒くさそうなのでこの件はなるべく触れないようにしようと心に決めた。
「さ、もう着いたから行こう」
「わ、いつの間に……ていうか結局答えはなんだったんすか」
「それは仕事が終わってから教えてあげる」
別にそこまで興味がある訳では無いが、答えを知らないままはモヤモヤする。仕事が長引くのも嫌だし、パパっと終わらせてしまってスッキリしよう。
古き良き、と言った感じの喫茶店にカラン、とドアのカウベルを鳴らして入ると窓際のボックス席に1人可愛らしい若い女性が座っていた。見た目の特徴からして自分たちの客だろう。
「お待たせしてすみません」
「いいえ、大丈夫ですよ」
ふわり、と笑う女性に心がきゅっとなる。そんな心を静めて菜花の挨拶に合わせて春原は営業スマイルを浮かべ懐から名刺を取り出す。
「今回担当になりました菜花と申します。隣にいるのは春原といいまして、まだ新人なので至らないところもあるかと思いますがどうか多めに見ていただけると助かります」
「春原っす。精一杯ご要望にお答えできるよう頑張りますのでよろしくお願いします!」
綺麗にお辞儀をして、子犬のような雰囲気を纏う。春原はビジュアルがいい自覚があるので、どう自分を見せれば上手く生きやすいかをよく分かっているのだ。いやらしいと言わないで欲しい、これは立派なテクニックだ。春原らのようなサービス業には重要な技術である。
大抵女の子は春原が優しげに微笑めば頬を染めて惚けるのだ。今回目の前にいる女も例外では無い。が、しかし。その視線は春原ではなく春原の隣に向いていた。
菜花である。またか、と春原は思った。菜花は整っている自覚がある己より数倍綺麗な見た目をしていた。美人もいくとこまでいけば人外に感じるんだなと人生で初めて思ったくらいだ。菜花と仕事をしていると何度もこんな場面に出会った。いつだって人を惹き付けてしまう罪な男だと思う。
「金雀枝(えにしだ)さん?」
「あ、す、すみません。名刺ありがとうございます! 金雀枝です、今回はよろしくお願いします」
慌てたように名刺を受け取って、ぺこりと頭を下げた金雀枝という珍しい苗字の女は1度深呼吸をして興奮を落ち着かせていた。
菜花もさすがに慣れているので、金雀枝が落ち着くのを待ってから話を始めた。
ちなみにどうでもいいことだが、春原は初めて金雀枝の資料を見た時全く苗字が読めなかった。うん、きんすずめえださんっすね! と言ったら菜花に頭を叩かれたのはつい2日前のことである。
「さて、では今回のご希望の詳細を聞く前に本当にこのまま承って大丈夫かどうかの確認をさせて頂きたいと思います」
「確認……ですか? 」
「はい、金雀枝様の全てを決める大きな選択になりますから」
そう話す菜花の横で、春原はにこにこと笑みを浮かべながらこの会社に依頼してくる奴の気持ちなんて一生わかる気がしねえなと思った。そう思いつつも、仕事は仕事。菜花に続いて春原も口を開く。
「御依頼されたということは今が人生で1番幸せだと感じているということっすよね?」
「は、はいそうですっ!」
「そうっすか。いやぁ、疑う訳では無いんすけどね。弊社といたしましてはこちらを騙して利用しようとするお客様もいらっしゃいまして、事前にお伝えした通り証拠となるものやエピソードをご掲示頂ければと」
そう伝えれば、納得した様子で頷いて手元のカバンの中から1枚の紙と何枚かの写真を出して机の上に広げた。
「……婚姻届ですか」
「はい、役所に出す直前にとったコピーですけど。ほら、結婚指輪もつけてるんですよ、綺麗でしょう?」
きらきら、きらきら。
金雀枝が嬉しそうに見せつけてきた指輪は、店内の淡い照明に反射して光り、傷がなく真新しいもののようだ。結婚して日が浅いらしい。
「ええ、とても綺麗っす。ではこの写真に写っている金雀枝様の隣の男性は旦那様っすか?」
「そうです」
写真に写っている2人はピクニックに行っていたり、遊園地ではしゃいでいたり、結婚式の美しい衣装を身に纏って寄り添う幸せそうな写真もあった。彼女など居らず適当にその辺の女をひっかけて遊んでいる春原には眩しい。目が潰れそうである。
「金雀枝様にとってこれらが幸せの象徴なんですね」
菜花が優しい目線を向けて微笑みかけると、金雀枝は幸せそうに旦那のことを話していたくせに頬を赤らめて視線を泳がせるのだから悲しいものである。
「差し支えなければお2人のエピソードとか聞かせてもらってもいいっすか? 」
「あ、もちろん! 私と彼は高校で知り合ったんです。同じクラスで、彼は誰にでも優しい人でした。ただ当時私はあんまり男の子と話したことなくて……優しく話しかけられただけでコロッと落ちてしまって」
「なるほど、では高校生の頃からお付き合いを」
「あ、いえ! 高校では彼はとてもモテていて自分なんか釣り合わないって告白せずにいたんです」
「え、そうなんすか? でも今は結婚してるし……じゃ、卒業後に再会したんすね」
「ええ、同窓会があってそこで。もうとっくに結婚してると思ってたのにまさかのフリーだって知って、つい諦めていた恋心が再熱してアタックすることにしたんです」
「わぁ、素敵ですね! 羨ましいなあ」
白々しい。菜花だって自分がどう見られているかよく分かっているくせに。春原はじとりと横に呆れた目線を向けてしまう。
「先輩ならよりどりみどりっしょ」
「そんなことないよ。それにお客様の前で変なこと言うな。すみませんね」
謝りながらも、菜花は春原の頭をぺしっと叩いた。しかし音に反して馬鹿力であるらしいその威力に涙目になった春原は心の中で、その音でどうやってこの威力出してやがるんだよ。いたい。ないちゃう。と文句をたらたら流した。口には出せない、もう1度喰らいたくないから。
「あ、いえ……でも驚きました。ご結婚されてないんですね? 凄く美人さんだからてっきり相手がいるものかと」
「嬉しいですが、男ですし美人は複雑ですね。ふふふ」
はぁ、と思わず溜息をつきそうになる。口に手を当ててお淑やかに笑うこの男はホストでもやったほうが天職なんじゃないだろうか。ともかくこの気持ち悪い甘ったるさを払拭しなければ。己の健康のために。
パン! とひとつ手を叩いて場の空気を切り替える。
「さ、お話の続きを聞きたいっすね! アタックして、紆余曲折あったんでしょうけれど、どんな感じで進展したんすか?」
そうにこにこ問えば、金雀枝はハッとした様子で咳払いをした。
「えっと、同窓会で連絡先を交換してから数回食事に行って意気投合して……暫くして告白されてお付き合い出来たんです。で、2年ほど交際して、つい先日結婚しました!」
「それはそれは、おめでとうございます」
パチパチ、と軽く拍手をすれば照れたように笑う金雀枝。幸せそうに話す姿に違和感もなく、嘘ではないだろう。事前調査の内容とも齟齬は無いし、嘘でこれなら大したものだ。みんな騙されるだろうから、もし嘘だったとしてもペナルティは勘弁して欲しい。
「でも、そんなこれからって時にいいんすか? これからの時間が1番幸せなのでは?」
「いいんです、私は2人でいる時間が1番幸せだけど、彼はきっとそのうち子供を望みます。今までも何度か子供について匂わせていたし……私は絶対欲しくない。それで揉めるのも嫌だから」
「だから、1番幸せな今のままでいたいということですか」
「はい。どうか……お願いします」
改まった様子で頭を下げる金雀枝に首をさすりながら考える。が、結論は出ないので菜花にほっぽることにした。
「うーん、どう思います? 先輩」
「うん、いいと思うよ。春原は?」
「俺は……先輩がそう思うなら異論はないっす 」
「もう、自分で考えなきゃダメだぞ」
そんなこと言われても、春原には金雀枝の気持ちが微塵も分からないのでなんとも言いようがないのだ。たとえ3ヶ月働いていようとも、この判断は難しい。
「あの…… 」
「ああ、すみません。大丈夫ですよ、承ります」
「本当ですか!?」
金雀枝の飛び上がりそうな喜びように、菜花は明るく笑って手を差し出した。あーあ、理解できない。この後出るだろう言葉を、いつか自分が言う時が来るのだと思うと不思議な気持ちだ。隣の菜花は花が咲くような柔らかい笑みを浮かべた。
「あなたの命、責任もって美しく綺麗な最期を彩らせて頂きます」
蕩けそうな喜色を顔面いっぱいに浮かべた金雀枝を見て、なんで幸せ絶頂で消えようとするんだか、と春原は思った。
この会社の仕事は、自分にとって今が幸せの最高潮だと感じたまま人生を終わらせたいと願う人々の願いを叶えることだ。最高にいい思い出のまま死にたい、この幸せから転落してしまう前に1番幸せなまま永遠の眠りにつきたい。今この瞬間の最高の幸せを最後の記憶に! そういう欲望を叶えるサービス。随分と昔は倫理観がどうとかで安楽死さえ禁じられていたらしいが、今は幸せや自由であることが重要視されていて昔の価値観ならありえないようなこの会社のサービスも当たり前に受け入れられ多くの人に利用されている。やっていることはただの殺人だけどな、と思う春原はこの世界からズレているのだろう。
幸せってなんなんだろう。
死んでもいいと思えるほどの幸せって、どんなに強い感情なんだろう。
どうしてその幸せが続くことを、その先でそれ以上の幸せが訪れることを信じられないのだろう。
春原は、この仕事をしているといつも思う。そしてきっと今日も分からないままだ。
そんなことをぼんやり考えたまま話をしていれば、気付けば打ち合わせは終わっていた。
店から金雀枝が出ていくのを見送って、まだ時間に余裕があったので夕食も兼ねてもう暫くこの喫茶店に居座ることにした。
「あー、今回は毒殺っすかぁ。人気ですよね、最近。やっぱ痛くないからっすかね」
「毒殺って言わないの。甘い毒を飲んで綺麗なままお眠りになることを望んでいらっしゃったね」
「毒殺じゃないっすか」
「ダメだって言ってるのに。問題児だな」
「そっすか?」
「そうだよ、春原は問題児」
楽しげにそう言う菜花に春原は頬を軽く膨らませるも、言い返す言葉がなかった。心当たりが痛いほどあるからだ。
「こんな言い方は本当は良くないんだけど、シンプルに言うと、君はお客様を殺すことが出来ないからね」
「……そうっすねぇ」
頬杖を着いて、虚空を見つめる。何がある訳でもないが、それが良かった。
「この仕事をするならそれは致命的だよ。早く出来るようにならなきゃな」
わしわし、と頭を撫でられてしばらく好きにさせていたが終わる気配がないので手を叩き落とす。痛っ、と零すがそこまで力を入れていないし菜花はそんなに弱くないので可愛こぶるなと唇を結ぶ。
「だって、やってること殺人じゃないすか。本人が望んでるとしても人の人生を奪うんすよ。抵抗あるっすよそりゃ……まぁ、俺がズレてるんでしょうけど」
「そうだね、春原はこのご時世に珍しい思考の持ち主だ」
「分かってますよ。……先輩はなんでそんな普通にお客様を殺せるんすか」
「眠らせて差し上げるって言ってよ。それじゃあ犯罪者と何も変わらないだろ?」
「じゃあ何が変わるんです? 俺には分かりません」
やっていることは殺人で、この会社のサービスが受け入れられている今のご時世でも殺人という罪は法律によって裁かれる。だというのに、俺たちは裁かれない。
俺達と犯罪者。そこになんの違いがあるというのだろう。
菜花は暫く唸っていたが、結論が出たようで顔を上げた。
「そうだなぁ、色々とあると思うけど1番は救済かそうでないか……かな」
「救済っすか?」
「そう、救済。救うこと」
仕方ない子を見るような目でそう告げられても春原にはわからなかった。なにも、理解できなかった。ああ、自分はきっとこの世界に間違って産み落とされた宇宙人なのだと馬鹿げた思考が頭をよぎる。
「怒りなどの衝動的な感情や自分のための利益を求めてする殺人は犯罪だ。でも苦しむかもしれない未来への不安という感情から救いあげる殺人は犯罪じゃない」
「……俺にはきっと理解出来る日が来ないに違いないっす」
「はは、それでも出来るようにならなきゃダメだ」
菜花は笑いながら先程頼んだパンケーキを小さく切って春原の口の中へ押し込んでくる。頑張って咀嚼するが、次から次に押し込んでくるので間に合わず春原の頬がハムスターのようになったところで菜花の手を掴んで止めた。
「はぁ、いっつも聞いていいのかなって思って躊躇してたけどこの際聞くよ? 大体そんなこと言うならなんでこの会社に入っちゃったんだ? よく面接受かったな」
問いかけられても春原の口の中はいまだパンパンである。仕方が無いので、春原は菜花を指さした。
「え、俺が理由?」
違う。春原は首を振った。菜花を知ったのは会社に入ってからだ、全く関係ない。そうではなくて。春原はコーヒー片手にさらに勢いづけて菜花に指を向けた。
「ン……? うーん、じゃあ俺がこの会社に入った理由を聞きたいってことかな」
首を縦に振る。春原は今話せる状態じゃないので、場繋ぎにお前の話を聞いてやろうということである。それにしても察しがいい。さすがはデキる男。
「俺かぁ……そうだな、単純な理由だよ」
少しずつコーヒーで口の中を流し込むことが出来るようになった春原はくぐもった声でその先を促した。
「両親の気持ちが知りたかったから」
瞬間、菜花の何もかもを映すことをやめた瞳を見た春原は、うげぇと思った。話の振り方を間違えたようである。蛇を出してしまった。そう思いながらもまともな声が出せないせいで止められない春原。そんな春原をよそに菜花は話し続ける。春原は冷や汗たらたらである。
「なんで俺と一緒に歩む先が幸せだと思えなかったのか知りたいんだ。死ぬ直前まで幸せとしか言いようのない家庭だった。だからこそなんだろうが……それがどんな気持ちだったか微塵も理解できない。でも理解したいんだ。だからそれを知るためなら人も殺せるんだよ、俺は」
ようやくパンケーキを口から駆逐した春原だったが、困ったことに何1つ喋りたくない気分である。なんて返せばいいのだ、常々闇が深そうだから足を突っ込まないように気をつけていたのに頭から行ってしまった。馬鹿め。
「……あー、うーん、大層な理由っすね」
「はは、でも思ったより驚いてないね? 俺がこういうこと話すと、聞いた人はみんなドン引きするんだよ。そんなこと言う人じゃないと思った……って」
からかうように春原の肩を叩いて笑う菜花は、先程まで煤けたガラス玉のようだった瞳に光が戻っていて陰ながら安心した。
「んー、まあそうでしょうね。パイセンってば聖人君子みたいに見えるから」
「春原にはそう見えないの? 悲しいなあ俺」
「いやーこんな打算的で合理主義の人が聖人君子なんて笑わせるっすわ。みんな先輩の人外じみた顔面に引っ張られすぎっしょ」
「あはは! 酷いなぁ、俺は春原にそんな風に接してきたつもりないけどな」
その困り眉だって計算のうちのくせに白々しいことを言うものだ。
春原とて出会った当初は聖人君子のような人だと思っていた。春原がどんなにミスをしても笑って助けてくれるし、仕事終わりだってご飯に連れて行ってくれる。春原のくだらない悩みに朝まで酒を片手に付き合ってくれる。こんな良い人がこの世界にいたんだ、と思った。
でも、違った。
「先輩はさぁ、俺が煙草好きって言ったら俺も好きだよって付き合ってくれましたよね」
「そういやそんなこともあったね。あれ、でも最近吸わなくなったよな。煙草やめたのか?」
「いーや、先輩が煙草嫌いだから。先輩の前では吸ってません」
そう言えば、菜花の目が面白そうに細められる。春原はそれに怖じることも無く、むしろ拗ねたように睨みつける。
「先輩が俺の家に来た時のことっす。先輩が帰ったすぐ後に忘れ物してったのに気付いて、まだ近くにいるだろう先輩を追いかけて行ったらさ。自販機横のゴミ箱に2本くらいしか減ってない煙草の箱放り投げてさ……温度なんか感じられない冷たい顔で溜息付いて……めんどくさ……ってそう呟いてたの見ちゃったんすよ」
春原は決して鈍感ではない。
その面倒くさいが、何に対してなのか正確に読み取れる程度には。聞いたのが春原以外なら、菜花がそんなこと言うはずがないと聞き間違いだのほかの解釈をするだろうが、春原は良くも悪くもその辺はドライな性格だった。相手に抱いた希望や好意的な印象をすぐに諦められる人間だった。
その人につけた付箋を貼り変えるだけ。春原にとって他人への関心なんてそんなものだった。良い人は好き、悪い人は嫌い。でも、菜花は春原にとって悪い人では無かった。だって少なくとも春原の前では良い人を完璧に演じきってくれていたから。人には誰しも表と裏がある。春原は一瞬戸惑いはしたが、この人もちゃんと人間なんだと安心したくらいだった。
それからのこと。菜花を暫く観察していたら、菜花の表情がいつだって作りもの同然だということに気づいた。なるほど、だから人間味が無いのかと。しかし、不思議なことに日を増していくにつれ菜花は自分に対しては素を見せるようになった。天然さを感じる言動も、からかうようなボディタッチも春原にだけ。これも春原の小さな警戒心や壁を察してのことだろうと、日々よくやるもんだなと春原は感心していた。
「あらら、見られてたなんてぜんぜん気付かなかった。俺としたことが警戒心が足りなかったな」
「まあ見たのが俺じゃなきゃ普段の行いからして疑われることもなかったっすよ」
「全く、つくづく賢い子だよ。決して心には触れてこない。何度隙を見せてみても、のらりくらりとかわしてくる。他の人だったら俺の特別になろうとズカズカ踏み込んでくるのに。面白いよね春原は」
「なんすかモテ自慢すか? はえーきっしょいっすわ」
呆れた目線を寄越しながら、その深淵に飲み込まれないよう命綱を握る。この人は不思議な人だ、誰も彼もを底なし沼に引きずり込む。自分の使い勝手のいい手駒にしようと。まるで俺たちはチェス盤の駒だ。自分がどう動けば周りの世界がどうなるのかよく分かっている。
「まあそんな拗ねないでよ、こう見えても俺は春原を気に入ってるんだ。お互いにとって適切な距離感を間違えない、俺に警戒心を無くさないところが好き」
「熱烈な告白どうも。俺も先輩が俺にとって良い人であるうちは嫌いじゃないっすよ」
お互いにニコニコ笑っているのに、温度は酷く冷たい。でも春原にとっては、この温度がいつになく息がしやすかった。
菜花はぬるくなったレモンティーを一口飲んで、ふぅ、と一息つくと春原に向き直った。
「さて、なんだか俺の話になってしまったけど本題は春原がなんでこの会社に入ったかだよ」
「あぁ、そういえばそっすね」
菜花の話がそれなりに衝撃的で頭から抜けていた。春原は天井を見つめながら、なんかさっきの話を聞いた後に話すの気まずいな、と考えていた。なぜなら、菜花のように重たい話じゃないからだ。
「あー、そんな先輩みたいな大層な話じゃないっすよ」
「うん、いいよ」
慈しむような微笑みを携える菜花に思わず顔を顰めてしまう。春原は作り物じゃない菜花の顔が苦手だった。本当の自分をさらけ出すことに抵抗がある春原にとって、菜花が素を出すと自分も同じものを返さなければいけないんじゃないかと多少の罪悪感に襲われるのだ。菜花以外にそんなことを感じたことはないから、きっとこれも菜花マジックだろう。
「……俺、昔から要領良かったんすよ。やれば大抵なんでも出来る天才っていうか。まあ今となると先輩に出会ってしまったんでそんなことも言いづらいんすけど」
「まあ確かに俺は天才かもね!」
「自画自賛うざっ。まぁそれで、なんでも出来ちゃうし、家に恵まれて欲しいものだって簡単に手に入るし幸せってよく分からなくて。不幸を知らないからっすかね、なんかヤな事あっても自分の中でけっこー軽々処理できちゃって。だから、不幸になるのが怖くなるほどの幸せってどんなんだろうって」
「おや、俺とちょっと似てるね。過程はともかくとしてさ」
「一緒にしないでください、あんたみたいな壊れた聖人君子と一緒は嫌っす」
「酷っ」
およよ、と泣き真似をする菜花のうざさにはもう慣れたので、何もせずに自分のコーヒーをひと口飲んで喉を湿す。横からウザ絡みが飛んでくるが、最近華麗に回避できるようになった春原に死角は無い。
「まあそれで、就活の時いちばん興味あったのがソレだったんでここに就職しました。1番近くでソレに触れられるし、分かるかなあって」
「でも肝心のソレを殺すことができないと」
「嫌味がお上手っすね」
そう言いながらも、春原はため息をついた。そうなのだ、いざ働いてみたらなんでも上手くやれてたはずなのに他人の命を奪うことだけ異常に抵抗がある。別に悲しいとか、嫌だとかそういうんじゃない。ただ、言葉にするなら生理的に無理なのだ。自分の手によって温度が消えていく感覚。自分が1つの命を終わらせて、奪った感覚。それがどうも受け入れられない。
「俺、好奇心だけど、死にたくなるほど幸せになってみたいんすよね」
「じゃあ、その時は俺が殺してあげようか」
「先輩に殺されるくらいなら俺が殺してあげるっすよ」
「出来ないくせに」
「先輩なら殺せますよ」
話しながら、春原は物騒な会話だな、と思う。でもこの世界ではこれはきっと普通の会話だ。どうして俺はこんなにもズレてしまっているんだろう。
日を改めて、あれから2週間程経った今日。
春原と菜花、それから依頼主の金雀枝は見渡す限り1面花畑の美しい場所に来ていた。地面に植えられた沢山の色とりどりな花達を取り囲むのは大きな桜の木々。風が吹く度に花びらがほどけていくのは見ていて寂しいものがある。美しいけど、儚い。
「綺麗ですね、金雀枝様」
「ええ、彼にプロポーズしてもらった場所なんです。人生で1番綺麗でお気に入りの場所」
頬を弛めて柔らかに笑う金雀枝を見て、あぁ、もうこの顔は見れなくなるんだなと思った。こんなに暖かい光景なのに、あの日のように心がきゅっとする。
「では横になっていただけますか」
こくん、と頷いた金雀枝はレースのあしらわれた繊細で綺麗な白いワンピースを揺らしながら花畑に横になる。その様はまるで棺桶の中のようで、美しい花々に囲まれた穏やかな笑みを浮かべる金雀枝にはその光景が恐ろしく似合っていた。
ぼーっとその姿を見つめていると、菜花に肩を叩かれる。そうだ、仕事をしなければ。
「こちらの小瓶の中身が金雀枝様を安らかな眠りへ導くっす。金雀枝様は薔薇がお好きだとお聞きしましたので、薔薇の花びらを使用した甘美で魅惑的な味のサラリとした蜜っすよ。安心してくださいっす」
「まあ、飲むのが楽しみです」
毒だというのに、そんな蕩けたように笑って、死への恐怖は無いのだろうか。そんな言葉は飲み込んで、微笑みを向けてから金雀枝の頭を片腕で持ち上げるようにして支えて、口元に瓶を傾ける。
春原はごく、と生唾を飲み込む。
手が震えているのをバレないように、金雀枝に最期の確認を話して気を逸らす。
「さ、金雀枝様。これを飲んだらもうお目覚めにはなれないっす。やり残したことはございませんか」
「ええ、旦那には今朝置き手紙をしてきましたし、愛の言葉もたっぷり伝えましたから」
「……そうですか」
その旦那、お前が死んだらどう思うんだろうな。
「春原、じゃあ頼むぞ」
優しく春原の頭を撫でて、そう零す菜花は子供の成長を見守る親のような目をしていた。これも計算なのだろうか、恐ろしい男だ。
春原は今朝、菜花と合流した時のことを思い出す。いつも通りの菜花の運転で春原達が金雀枝の元へ向かっていたときのことだ。菜花は珍しく真剣な声で話を切り出したのだ。
「春原、お前に言わなきゃならないことがある」
「え、なんすか改まって」
まっすぐ前を見て硬い声を投げかける菜花に春原はなんだか嫌な予感がひしひしとした。
「俺は今まで、俺が眠らせてきた人たちの1部は春原が眠らせていることにして報告を上げていた」
「それは知ってますけど」
「そしたら春原もそろそろ独り立ちかもなって、上がお前を今度の仕事のパートナーに選ぶと言ってきた。それがどういうことかわかるか」
「……俺が殺せないことがバレる」
「そうだ。だから、今日は甘やかさない。今日こそ殺して一線を越えろ。じゃなきゃ俺直々にお前をクビにする」
「は!? そんな……」
「悪いけど、俺が嘘の報告あげてたってバレるのは不味いんだよ。わかってくれ。俺だってお前を守ってやりたいけど……もう決める時が来たんだ」
何も言い返せなかった。むしろ、ここまで面倒を見てくれた菜花は異常なほどなのだ。それに、いつまでも出来ないが通用しないことは痛いほどわかっている。いつかできるようになる、のいつかが今きただけなのだ。
すう、と息を吸ってゆっくり吐く。
ここに来るまでに覚悟は決めた。もう、逃げられない。
「じゃあ、っ……しつれい、しますね」
とろ、と中の黄金色に輝く液体が金雀枝の喉に流れていく。
震える手を気力で抑えつけようとしても、震えが収まらなくて静かに困っていれば、菜花が上から手を添えてくれた。そうすれば収まるのだから、不思議だ。さっきまで冷えきっていた手に温もりがじわりと分け与えられているのを感じる。
なぁ、金雀枝。
お前のいう幸せってどのくらい心を満たしてくれるんだ。
それを知ることが出来れば、俺のこのからっぽな心も少しは満たされるのかな。
どうしたらお前みたいにそこまで誰かを想えるようになるのかな。
家族も、友人も等しく一定以上の感情を抱けなかった俺にはさ。
分からないよ、やっぱり。
「おやすみなさい、金雀枝様」
日が暮れ、花々がオレンジに染る頃。
金雀枝の死体を棺桶に移して、本人の希望通り咲き誇る花々の下に埋めた。
「それにしてもこんな重労働人力でやらせるとか、変なところで時代遅れじゃないっすか?」
「まあ、かと言って機械入れたらここの花畑荒らしちゃうし」
「俺今日ガーデニングしてる気分だったっす」
一旦花を植木鉢に入れて、穴掘って棺桶埋めてまた花を埋め直して……こんなんうちの会社の仕事の範疇じゃないだろ、と春原は愚痴を垂れていた。
「ふふ、まあでも今日は春原が1歩進めた記念に高いお肉でも食べに行くか?」
「え、いいんすか? ヤッタ!」
「あ、でもさっきまで顔色悪かったし肉は厳しいか?」
「いやいやいや、もう吹っ切れたっす。だからいい肉頼むっすよ!」
「はは、調子いい奴だなお前」
春原と菜花は、2人して土にまみれた姿だったので飯に行くなら着替えて風呂も入らないとな、とお互いの姿を指して笑いあっていた。
「俺カルビいっぱい食べたいっす」
「若いね、俺はハラミかな」
「おじさんっすね」
「うるさい奢らないぞ」
「ええっそんな堪忍っすよ!」
そんな風にケラケラと笑いながら花畑の出口へ歩いていくと、春原は1人の男がこちらを見つめていることに気がついた。
「先輩、こんな時間に人がいるっすよ。ここ人あんま来ないんじゃなかったっすか?」
「ああ、うん。金雀枝様はここは穴場だって言ってたな」
「な、なんかめっちゃ見られてて気味悪いっす」
「うーん……金雀枝様の関係者かも。春原はここに居て。俺話しかけてくる」
「え、ちょ、先輩っ」
春原が引き留める間もなく早足で歩いていった菜花に、ホント自由だなとぼんやり見つめていた。まあ、菜花のことだから本当に関係者だろうと、ただの不審者だろうと上手くやって戻ってくるだろう。
そう、思っていたのだが。
少し離れた2人の会話の声が段々と大きくなっていく。言い争っているらしい。
「せ、先輩……? 」
あの菜花が珍しい、と心配になって1歩踏み出した時だ。
「来るなッッッ!!」
びく、と肩を揺らして反射的に立ち止まる。今までに聞いたことがないような大きな刺々しい声、驚いて思わず瞑った目。固まる体。
まるで躾られた犬だと思いながらも、その状態から動けずにいた。
菜花の声には人を従わせる力があると常々思っていたが、ここまでとはなと苦笑いを浮かべる。それから、目を開けるのもなんだがはばかられて暗闇に取り残されて一体どれだけ経ったのか。
頭に、ぽん、と暖かな温度が乗せられた。
それにほ、と安心して目を開く。
「せんぱい……?」
「うん」
目の前にはいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべる菜花が居た。
「はあ、なんだ良かった。大きい声出されてビックリしたっす」
「ごめん、でもやっぱり賢いよ春原は」
頭に乗せられた手が右に左に優しく動く。
「賢いって、それ褒めてるんすか?」
「もちろん、だって言わなくても意図を読み取って、ちゃんと目閉じてくれたし」
「目閉じたからなんだって……あれ、てか先輩距離近いっす。俺の視界に先輩の顔しか写ってないんすけど」
「こんな間近で俺の顔みて照れないの春原くらいだよ」
微笑む菜花に違和感を覚える。なんだ、何かがおかしい。あれ、先輩ってこんな顔色白かったっけ。なんだか息荒くないか。よく見ると暑くないのに汗かいてる。ていうか、変な匂いする。鉄、みたいな。なんで。
「せ、先輩……なんかおかしいっす!!」
頭がそれを理解した瞬間、そう叫んで菜花の肩を掴んで自分から距離を離す。と、その勢いでふらついたのか菜花は地面に崩れ落ちた。
その体を追った春原の目は大きく見開かれることになる。
崩れ落ちた地面に咲く花々は鮮烈な赤に染って。
「え……」
菜花の腹には何かが生えてて、そこから赤いのが沢山零れ落ちてて。
それに比例していくように温度も色も失われていく菜花の体。
衝撃で春原も崩れ落ちる。
「なんで……?」
自分からこんな情けない震えた声が出るなんて、とどこか冷静な自分が笑う。
「は、は。バレちゃったか。どうせ、死ぬ、ならさ。いつもどー、りの春原の、生意気な顔、見ながら死の、かな、て思ったのに」
さっきまでは気を張って呼吸を落ち着けていたのか、スイッチが切れたようにゼェハァと呼吸を大きく乱す菜花の姿が現実だと受け入れられない。
「え、なんで、せんぱ」
「はは、旦那さんおこっ、てた。よくも妻をって、はは。おれらのせいじゃねーよってな」
「え、旦那さん……?」
「2人とも殺すっていう、からさ。俺も自衛よ、の、持ってたナイフで刺し、たけど、油断しちゃって。引き分けなっちゃ、た」
その穏やかな声色も表情もとっくに生を諦めているようで、春原の心は怒りと絶望と悲しみでグチャグチャだった。
「待って、今救急車呼ぶからっ」
そうスマホを取りだした春原の手を菜花は掴んで止めた。
「なんでっ」
「もう、助からない。分か、るんだ。不思議だよな」
そう優しく言われて、初めてこの人はもう死ぬんだと頭が理解した。
瞬間、春原の視界が急激に歪む。鼻がツンとして痛い。そんなのは初めてのことで、でも気にしている余裕はなかった。
春原の目元に菜花の指が滑る。
「はは、泣けたん、だ。春原」
「うるさいっすよぉ……天才のくせになんて馬鹿なミスしてんすかっ」
力を失った菜花の体を掻き寄せてぎゅっと抱きとめる。
「先輩っ、せんぱい……ヤダ、お肉奢ってくれるって言ったじゃないっすか……」
「ふ、ごめんな。……なぁ。お願いが、ある、んだけど」
「ヤダぁっ! 死なないっすもん! 先輩は! ねぇ、生きてくれたらなんでも言うこと聞くっすから!」
「めずら、しく、聞き分け、ないな。まぁ、さ。きいてよ」
「っあぁ、ヤダ、嫌っす!!」
春原がどれだけ喚こうとも、どれだけ抱きしめようとも目の前の温もりは失われていく。嫌だ嫌だと言ってるのに、菜花は笑って口を開く。
「あのさ、春原」
「……もうっ、なんなんすかぁっっ!」
「俺を殺して」
「………………え?」
今にも力を失いそうな手で春原の頬に手を添えながら今まででいちばん安らかで幸せそうな表情で菜花はそう言った。
「俺さ、春原のこと手がかかって、めんどくさ、いって思ってた。でも、や、ぱ、手がかかる、ほど可愛くて」
「いまそんなのいいって! だまってよ! しんじゃう!!」
「俺とそれなりにいて、さ。変な執着みたいな、さ。向けてこない、ひと、は、じめてで。一緒に、いるとあん、しんして」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
「だから、そ、な愛しい、春原に、な、いてさぁ、もら、ながら腕の中で死ね、るとかさぁ、はは。もう超幸せじゃ、ん」
「っ、お、俺は幸せじゃないっすよぉ! 先輩のくせに後輩泣かしちゃダメでしょ……」
「ふふ。それは、たしかに。でも、さ。どうせ殺されるなら、さ。あんな、知らねぇ男じゃ、な、て、お前がいい」
それが本当に幸せだと、全身で、表情で、声で訴えてくる菜花に抗う術を春原は持ち合わせていなかった。元々、菜花は人に言うことを聞かせるのが恐ろしく上手いのだ。
「ああ、もう! ……はぁ、じゃあ先輩。俺もひとつお願いしてもいいっすか? 」
「な、んだ」
「俺も一緒に逝かせて」
「……なんで」
僅かに目を見開く菜花を見て、春原は今日は珍しい先輩の姿をよく見るな、と悲しみの混ざった笑みが溢れた。
「俺ね、先輩がこうなって今初めて不幸を知れたっす。でも、この先にこれを塗り替えれる幸せがあるなんて信じられない。つまり、先輩と話せてる今が人生最高の幸せっすよ」
そう春原が精一杯の優しい微笑みを向ければ、菜花は眉を八の字に歪めた。
「ほんと、お前は、仕方ないやつだよ」
そう言って頭を撫でてくれる手もこれから消えてしまう。そんな世界で。ただ1人、唯一俺の心を揺らせた人が居ない世界で。俺は生きていけない。ああ、これがかの有名な失ってから気付くってやつ?
菜花の腹からナイフを抜いて、心臓目掛けて構える。その手はもう、震えていなかった。
「先輩、なにか言い残したことはあるっすか」
「ん、ああ、そうだな……ひとつだけ」
「なんすか」
「桜は、さ。なんですぐち、るのかって」
「ああ」
「ふ、それはな」
その後に続いた言葉を聞いて、春原は諦めたような気持ちになった。
そうか、それがこの世界のイカれた真実か。
その一言を聞き終えて、ナイフを心臓に突き刺す。そのままゆっくりと引き抜いて、次は己の心臓に。
2人の体から流れる血で花畑を真っ赤に染めながら空のオレンジさえ赤に見えて世界がまるごと赤くなった錯覚を引き起こす。
先輩。次は先輩が知りたかったこと、探しに行きましょう。
風に揺れて飛んでいく桜の花弁が、穏やかに眠る2人を祝福しているようだった。
「桜はきっと美しいままでいたいから、すぐに散ってしまうんだよ」
- 評言 -
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