ジェンダー論成す術なし2020現在、新橋にて
ジェンダー論を問う友達(男性)と飲んだ。
彼はそこそこ名の知れたツイッタラーで、世の中の生きにくさを代弁するべく、数世紀あとの代でジェンダー論が日常化すればいいなあと言うけど、やっぱりそう問う彼は現代では生きにくそうだ。
彼とは新橋で飲んだ。
新橋にはやはり、饒舌なサラリーマンがよくいる。
饒舌なサラリーマンはよく飲み屋事情に慣れており、カウンター横の別客や、店員に話しかける。
わたしはちょうどそのサラリーマンの的に当たった。
そのサラリーマンはこの店のお勧めの食べ方などを気さくに教えてくれた。とわたしは思ったのだが、一緒に来ていた彼はジェンダー論が土台なため「話しかけられていることそのものが、男から舐められている」とわたしに言った。
わたし自身は(さまざまな人種や考え方に寛容でいるために)なにも傷つかなかったものの、大きな声でサラリーマンに対して「うるさいので良い加減にしてください」ときっぱり線引きする彼に驚き「いやあ、どうもすいません」といってそそくさと帰っていった。
わたしはスナック勤務なので、おじさんがそうやって気さくに話してくれることが嬉しかったのだが、いっしょに来ていた彼は「女だからって舐められている。きみは被害者なんだ」と言った。
すごくショックだった。
被害者なんてこれっぽっちも思っておらず、むしろこの店に馴染みのあるおじさんが、この店でおいしいものを食べる秘策を親切に教えてくれたと思っていたので、それを「舐められている」と一蹴されてしまったから、女でいることを否定された気がしたからだ。
しかしわたしもめげない。
そのジェンダー論を語る友重も、わたしが手を寄り添わせたり、「やーんもう一杯飲もうよ〜」と誘うと、満更でもないのだ。
おや?
結局ジェンダー論はもちろん大切にしていかなければならない考えではあるが、それ以前に、やはり本能的に「好き(恋愛として)」と思う相手からの誘いや行為に自然と感情が出てしまうことは、はたして彼の問うジェンダー論に反してはいないのだろうか。
恋をして、子供を作り、未来へ紡いでいく。
それはジェンダー論があってもなくても成立すべきことであることは承知の上として、彼はやっぱり持論を問うに当たって、広く狭いその視野を、改めて見直して欲しいなあと感じた。
その方が、その豊かな発想ともつ彼とずっと友達でいられるのになと。
根っからのジェンダーであれば、わたしのその行為すらなにか否定してくるはずだと期待していた。
しかしそうではなかった。
時代を日々観察し、ジェンダー論を問うことがいかに難儀がということはよくわかるが、サラリーマンに文句を言う前にどうか自分がいま思う感情を見直してから、ジェンダー論を語る上での為人から出直してきてほしい。
なーんて思ったよん。
まあもう、しばらく飲みたくないから良いんだけどね。
自分の信じる自分の姿を描きながら、今を生きていきたいですね。
(酔った手で打ってるので誤字愛嬌にて、、)