白足袋は、遠い日の花火ではない。
先日、肝付町の二階堂邸で行われた住吉社中のお座敷を見に行ってきた。住吉社中というと、いちき串木野市を拠点とする町芸事の連で、住吉小糸氏と仲間、そしてお弟子さんによる踊りや三味線、小唄で楽しませてくれる。
まず、二階堂邸には玄関がなく、高い縁側の外に置かれた沓脱石から「よいしょ」と上がると、小糸氏を筆頭に小学生から大人まで全員の挨拶で迎えられた。小学生も、もちろんきちんと髪を結い、浴衣ながらお太鼓結びに白足袋の姿である。一瞬、私はどこに来たのだろうかと不思議な、まるでタイムスリップしたかのような気分になった。
一個人のお屋敷なので、舞台としてはあまり広くなく、20名の定員であった。幸いかぶりつきで住吉社中の世界に浸ることができた。
私事ではあるが、昔から和装が好きで、日本舞踊に強い憧れがあった。自分が今いちき串木野市に住んでいる子供だったなら、母親に泣き落としをしてでも入門したかったと思うほどである。日本舞踊というと、演歌をかけて踊る、のような誤解があるが、つい何十年か前までは、三味線を弾ける人が酒席に一人はいて、それに合わせて踊ったり歌ったりしたらしい。住吉社中は決して一見さんお断りの京都の芸者さんのような格式ばったものではなく、庶民の酒席に色を添える町の芸事を行っているのだが、最近ではそれさえも珍しくなってきているため、自然と保護されるべき存在だと思えてならない。同じ日本人だというのに、もはや外国の文化を見るような感覚になっていることに、我ながら悲しく思う。
同じように鹿児島弁というものが若い人から失われていることを残念に思う。私は元々両親ともに鹿児島の出身ではなく、子供のころはでディープな鹿児島弁というものを全く知らなかった。それが、20代の頃に元夫の両親の話す鹿児島弁が面白くて、色々訊ねて覚え、使うようになった。しかし、私の親の世代の方でも、さすがに大隅半島ということもあって、薩摩のお武家言葉というものは聞くことはできない。15年くらい前、加治木町(現在姶良市)の喫茶店で偶然居合わせた80代と思しき女性が、それはそれはしなやかで上品な薩摩言葉を使っていたのを聞いた。それがおそらく私にとって現実世界では最後の生き証人であったが、もはや再会することができない。その時すでに稀有な話し手であったのだ。あの時、今の私の様な「突撃精神」があれば、その方とつながりを持ち、その美しい言葉を教えて頂いたことだろう。本当に惜しくてたまらない。
それを思うと、私の鹿児島弁など、ただの「なんちゃって鹿児島弁」であり、後世に残すようなものではないと思うのだが、これが100年後の人からしたら、もしかしたら貴重なものなのかもしれない。
小糸氏がおいくつかは存じ上げないが、昔のお話も今のお話もたいそう面白く、いったいいつの時代から生きているのだろう?と思うくらい物知りで、昔あったものがなくなることに寂しさを抱いていらっしゃるようだった。それはその日、場を共にした人全てが、陽炎を見たかのごとく、同じ思いであった。
昔というものはいつの時代も美化される、ということは分かってはいるが、自分が愛したもの、過ごした日々は、未来永劫残っていてほしいものだ。今と違って娯楽が少なかった時代、踊りや唄は庶民の暮らしと密接なものであっただろう。セクハラ、パワハラ、モラハラ、言い出したらキリがない。人間の営みに線を引くことは難しい。私の様に「話すことが全てポリコレ」と言われた人間でも、人と人の繋がりの大切さだけは分かる(と思いたい)。
「恋は、遠い日の花火ではない」名コピーである。恋ではないが、私の好きなもの全てが「遠い日の花火」にならないことを、無責任に願うこの頃である。
いや、しかし小糸氏の白足袋の、ピンっと張って美しかったことよ。