セミナージプシーと呼ばれても、セミナーに通い続ける理由
学びの場が好きで、色んなスクールに行ってきた。ボディワーク各種、コーチング、リーダーシップ、カウンセリング、傾聴、NLP、そして文章。
田舎なら家一軒、マンションでも頭金くらいにはなったんじゃないかと思うくらいの金額を投じてきた。
そんな私のことを、人はセミナージプシーと呼ぶ。
いい加減学びに投じた金額を回収せねばと思うのだが、なかなか思うように形に出来ないままでいた。
そんなじれったい日々を過ごしていたある日、尊敬するコピーライターの先生が「月に一度、コンサルとコーチングをそれぞれ受けている。あと心理学の講座にも通ってる」と話すのを聞いて驚いた。
年収も高くて仕事も完璧な人が、セッションを定期的に受けていること、未だに学び続けていることに軽く衝撃を受け、スマホを手から落っことしそうになった。
学び続けている人を「セミナージプシー」と言って笑う人の中には、どこか「学びは、終わるタイミングがある」と思っているような気がする。
義務教育のように学校である程度学んだら、その内容を活かして働くことが当然と思ってる人たちからすると、ずっと学び続けている人は奇妙に映るのかもしれない。
以前友人に「文章のワークショップを主宰するんだ」と話した際「仁美さんはワークショップをやる側じゃなくて受ける側だと思うよ」と言われた。
別の場面で「コーチングを習ってるんだ」と話した際は「仁美さんはコーチングをやる側じゃなくて、受ける側の人間だと思うよ」と言われた。
その人が言っていることはなんとなくわかる。
人間には舞台の上で輝く人と、それを観客席から見る人に分けるとしたら、おとなしくて声が小さい・目立たない私は明らかに後者だ。他人には私がワークショップで前に出たり、コーチングでクライアントとセッションするイメージがわかないのだろう。
しかし私は「これまで出会った素晴らしいコーチや、学びの場をつくる人に私もなりたい!」という想いが勝ってしまって、明らかに向いてないのに学びを受ける側から学びを提供する側に飛び出してしまった。
そうして今、学びの場を提供するようになって痛感するのは「自分はなんて、もの知らずで無知なんだろう」という事実だ。
予想外の質問を受けると答えられなくなることもあるし(後日メールで回答したりしてます)、講座が終わった後「もう少しああしていたら」とタラレバが溢れることも多い。
前に立てばたつほど実感する「自分は一生学ぶ側なんだな」という真実に突き付けられる。
それでも、最近はもうそれでいい気もしている。
講師をしている知人は「私はもう完璧だし、そもそも生まれながらにして完璧だから、もう私は学ぶ必要がないの」と豪語しているのだが、私が受講生だったら自称「私はもう完璧」さんより、その道を歩き続けている人から教わりたい。
たぶん私はこれからもセミナージプシーと後ろ指を指されながらも学びの場に出続けるし、明らかに向いてないけど場づくりもコーチングもすると思う。
尊敬する人も学び続けていることを知って、改めてそんなことを思ったりした。