『アンチ・オイデップス 上』河出文庫

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「機械」は、反復の次元に属する

「機械」は反復の次元に、「構造」は一般の次元に属するとする、國部功一郎氏の説明は分かりやすい(『ドゥルーズのが哲学原理』のが「構造から機械へ」)。

「反復は、置換不可能・交換不可能な特異性に関わっている」と言うのである(同P127)。

つまり、反復は、それゆえに、一つひとつが異なったものである。同一の事態が反復されることはないが、そのような反復から、「何か新しいもの」を抜き取ったとき、一般性の次元に属する「習慣」が成立すると言うのである。

ここで「何か新しいもの」が「差異」であり、反復は差異と言うことになる。言いかえれば、差異は何か新しいものである。反復も何か新しいものであると言うことになる。

ガタリは、この一般性の次元を構造に、特異性の次元を機械に割り振っている。これは、機械が、現実の反復が行われている水準で考えられていることを意味する。構造は還元された一般性を扱い、機械は反復される特異性を扱う。(同書、P127)

「機械」は、運動体のようなものでる

機械は、工場のような機械ではない。仲正昌樹氏の『アンチ・オイディプス入門講義』において、機械という言葉は、かなり拡張されているという。つまり、自動的に、自立的に運動しつづけるものが「機械」なのである。また、機械は道具とも違うという。

二つの要素が接触したら、そこに「機械」が生まれる、という言い方をしています。異なるものが接したら、異質なのですぐ同化することなく、相互作用する形で変化・運動が生じるということでしょう。・・・「道具」と違って、異質なものの結合によって生まれる「機械」はどういう風に動くか予想できない感じですね。(『アンチ・オイディプス入門講義』、P25)

非常にわかりやすい、異質なもの同士というのが良い。文字通り、人間どうしである。

なぜ「構造」でなく「機械」なのか ②

「構造」はどうしてダメなのか。今日(20200720月)気がついた。「構造」ではなく、「機械」という視点に立つ必要がある、のだ(同P24)。つまり、仲正昌樹氏の『アンチ・オイディプス入門講義』によれば、レヴィ=ストロースに始まる人文・社会科学の方法論としての構造主義は、

人間の振る舞いや親族・氏族関係、交換、住居、言語、芸術や文化の様式は、無意識のレベルの「構造」によって規定されている、という前提に立つ方法論です。(同P24)

さらに、構造主義が考える「構造」というものは、

事物を、上/下、右/左、男性/女性、精神/物質・・・・というように、差異化して位置づける記号の体系です。

やや、差異化というものが、固定化する仕方で悪者扱いにされているかのようである。構造主義は、固定するものであるのだろうか。二項対立、二分法という西欧哲学が否定したものは、構造主義だったのであろうか。それ以前の哲学でないのか?

ただ、仲正氏が言う構造は、固定化されているものでない、という。フロイト主義のようにエスとして、無意識の中に本能のようなものとして横たわっているものではなく、ラカンが言う記号の体系として、固定化された構造でもないという。けれども、機械は、人間を動かす重要な原理だというのである。

なぜ「構造」でなく「機械」なのか ①

仲正昌樹氏の『アンチ・オイディプス入門講義』を拾い読みする。「構造」ではなく、「機械」の視点が大切と言う指摘は、なるほど、そうだと思った。つまり、「機械」は「構造」と違い、運動の反復の間に差異が生じるような、「運動体」なのだ。機械は、道具と違い、人間にとっての有用性とは関係なく、「循環」し続けるものなのだ。

「機械」は、2つの異なる要素が接触したら、機械が生まれる。異なるもの同士が接触するわけなので、お互いに同化するわけではない。相互作用する形で変化・運動が生じるのだ。予想ができないのだ。

ここで、機械を使うのには、デメリットがあるという指摘はしながらも、逆に機械という言葉を使うから、「私たちの常識的な見方に揺さぶりをかけられるから」(同書、p26)の言葉は印象的だ。

「機械」とは、言い換えれば、「器官」でもある。細胞が結合して「器官」として生成するとする。生成という言葉も気を付けないとわからない言葉だな。で、「器官」が生まれるとどうなるかというと、栄養を他の「器官」に配分する役目を果たすよういなるのだろうな。役目を果たすというのは、主に血液を運ばせることでそうするのだ。そのそれぞれの「器官」を総称して「機械」ということもできよう。

「欲動」とか「リビドー」、あるいは、生物的欲求などを発生させ、それを各器官に送りこむ「機械」ということでしょう。「ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する」というのは・・・器官をベースにして固有の運動をする機械は、それまでのエネルギーの流れをいったん断ち切って、自分を中心とする新しい運動を引き起こす。 (同書、p27)