科学コミュニケーターという「まほろば」
2008-2010年ごろまで日本科学未来館という国の科学館で「科学コミュニケーター」として働いていました。今日はその同窓会があったので、その頃を振り返ってみます。
科学コミュニケーターとは
宇宙飛行士の毛利衛さんが初代館長をつとめられていた日本科学未来館で「科学コミュニケーター養成事業」として育成されていたのです。事業としては、日本科学未来館で先端科学技術を伝えるサービススタッフ、コミュニケーションのプロとして科学館のスタッフとして働くのですが、大袈裟な例えでは「宇宙飛行士養成」をイメージするとよいのかもしれません。ロケットに乗って宇宙に行ったり宇宙ステーションに行って有人作業や実験を行う宇宙飛行士の代わりに、社会実装や有人対話を日本科学未来館という国のミュージアムで行います。
最近ではこんな感じの活動になっています。
私が勤めていた頃は、ブログやSNSも組織的には行われていなかったのですが、2010年ごろに小規模に始まり、いまでは組織的な活動になっています。震災後の活動、その後もコロナ禍をこえて重要な発信活動になっていますね。
科学コミュニケーターはその後「何」になるのか?
科学コミュニケーターは育成されたその後「何」になるのでしょうか?
2017年ごろの文科省によるデータ
最近のデータ
もちろんこのような「就職先」という視点もあるとは思うのですが、統計としての数やパーセンテージはともかく、個々の科学コミュニケーターの人生と社会的な「つながり」について、このブログでは少し当事者目線で深めておこうと思います。
まず「宇宙飛行士」が宇宙から戻ってきても「宇宙飛行士」であるように、「科学コミュニケーター」は、科学館を卒業しても「科学コミュニケーター」であると考えています。これは職業でもありますが「生き様」であり、コミュニケーションのプロとしては対話する相手や対話するサブジェクトががある以上は、その姿勢やスキルの違いはあれど、様々な仕事がありえます。
私の場合は、大学の先生、研究者、ソーシャルメディアの会社の研究所ディレクター、作家、タレント、国際スタートアップ企業のCEO、クリエイティブAIメディアの編集長といった各ロールにおいて、それぞれ「科学コミュニケーター」としての経験が活かされています。それぞれの職業で価値を生み出しています。
科学コミュニケーターは「科学館の解説スタッフ」という視点で見ると、エッセンシャルかそうでないかギリギリ微妙なラインのエッセンシャルワーカーではないかと思います。そもそも科学館は人々にとって必要なのでしょうか?展示解説員は不要でしょうか?仮にそれが、絵画や彫刻といった古典美術のミュージアムであったらどうでしょう?科学技術をつたえるミュージアムは企業の宣伝やブランディングとしてのプロモーション的な立場もあるでしょうけど、企業の製品やブランディングと異なり、「そもそも何の役に立つの」という疑問が常について来る国の科学研究投資のナレノハテを扱うミュージアムです。古典美術と現代美術で作品との対話姿勢が異なるように、先端科学技術における展示解説と地域の子供達のためのポピュラーサイエンスや企業の科学技術館はそれぞれ「伝える」の立ち位置が異なります。「解説は、来館者が求めれば必要」という立ち位置になりますでしょうし、もっと前のめりに声掛けしていくもアリでしょうし、学校団体向けの案内や、ワークショップ開発のような実験実演系の準備や開発もあります。来館者が自然に展示物と対話し、会話や対話が産まれてくるような「展示開発」や「展示設計」を行う側の展示開発系の科学コミュニケーターもいます。
もちろん安全で快適な展示物の設計、走り回る子どもたちからお年寄り、海外からの来館者、障がいをお持ちの方などに向けた安全で快適な展示技術、対する安全管理やサービス提供者としてのスキルも求められます。印象が良い受け答えや身なりも研修がありますし、時間内でプレゼンテーションを行うスキルなども研修がありました。私が働いていた頃は「ASIMOの実演」といった高難度のスキルが求められる「人間とロボットの協働」もありました。
ちなみにASIMOもまた、科学コミュニケーターの同僚です。
最近では聴覚障害者向け「AIスーツケース」なんかも科学コミュニケーター技術のナレノハテですよね。
「科学は文化」の戦いの記録
「科学は文化である」そういった世界観は現在では当たり前になっているのかもしれませんが、実は日本科学館のプロジェクト(当時は「さいえんすワールド」という名前だったと記憶)が生まれた、2000年代初頭ではそうは考えられていませんでした。科学は威信であり権威であり、国力である、といった側面はいまでも人によってはあると思います。
科学館での科学コミュニケーションは華やかに見えるかもしれませんが、華やかなのは9時から17時の表面だけです。自分が働いていた頃は、展示解説スタッフとしての仕事や、常設展示企画の展示開発者のお仕事に、展示物を磨いたり、自分自身の実演や接客スキルを磨いたり…常に「国の科学館として」の難しい議論やプレッシャーがありました。
一期一会のお客様との対話。
ワンショットの出会いとやりとりで、すべての印象が変わります。
現代日本のお客様を相手にするということは、ディズニーランド並みの「ハピネス」と「一つでも欠けたらハピネスじゃない」を求められます。
それは現代のChatGPTでも同じことだと思います。その瞬間のために、世界中の科学技術の正確な知識と、対話のポイントが整理されている必要があります。論文やファクトだけでなく「関わる科学者の思い」や「わかりやすい社会における価値」なども重要です。
「科学館は必要なのでしょうか?」このような議論はあらゆるレイヤーで常に議論されるテーマでありました。必要とか必要じゃないとか無駄だとか無駄でないとかそういう議論が、「文化」といったレベルに持っていくいかに大変か、そしてその世界観と「お金がない日本」の闘いがいかに野蛮で消耗する議論であったのか、わかりやすい過去の論争を引用しておきます。
「わたしはいつも文部科学省とは違う意見を持っております」からはじまる「毛利無双」は35分ぐらいから。
よく引き合いに出される、というか混同されるのですが「北の丸の科学館」という話に出てくる、科学技術館も「科学館」です。1960年に設立された公益財団法人日本科学技術振興財団です。
https://www2.jsf.or.jp/pdf/info/jsf_outline_202307.pdf
公益財団法人は民間の組織ではありますが、福祉や芸術など社会貢献度の高い事業を行い、自法人の利益を追求するだけでなく社会にさまざまな好影響を与え続ける必要があります。 公益財団法人を設立するには一般財団法人を設立後、公益性の審査を経て内閣府または都道府県の行政庁の公益認定を受けなければなりません。
日本科学未来館は文科省文部科学省の管轄下にある国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が運営しています。名前は似ていますが、科学技術振興機構と科学技術振興財団は全くの別物、別組織です。
日本科学未来館は、1995年の「科学技術基本法」、1996年の「科学技術基本計画」に基づき、科学技術への理解を深めるための拠点として建設され、2001年に開館しました(沿革)
それから上野にある「国立科学博物館」は「博物館」です。
つまり「カギカン」、「カハク」、「ミライカン」のなかで、「国の科学館」は「ミライカン」しかないんですよね。
当時のこの手の国会議員によるコストカットパフォーマンスは、わかりやすさが求められる一方、科学技術や研究に関わる当事者としては釈然としない話も多かったです。選挙によって選ばれた政治側からの「わかりやすさ」と、財務省側の思惑や担当官の思惑、そして郵政改革や指定管理者制度のような民間へのアウトソーシングが急速に進む中での自民党から民主党への政権交代といった混乱の中で、例えるなら「打ち上げたロケットからパイロットを引きずり下ろすような議論」が多く、また議論の論点のズレも多かったのですが、きちんと歴史認識として残していかねばなりません。
(その後、東日本大震災が起きたりもしました。被災された方々への祈りを捧げます)
さて、事業仕分け以降、この話はどうなったのか。平成末期の文科省による事業報告がありましたので引用しておきます。
https://www.mext.go.jp/content/1332452_10_2.pdf
だいたい国民一人当たり22円、来場者一人当たり17円。
入場者一人あたりコストでは1625円です。
まあ完全に民間運営にするなら入場料2,000円平均ぐらいとれば成立するので、映画館1回ぐらいの感じですね。海外の科学館だと20-30ドル/ユーロぐらいはしますし、国民一人当たり22円の負担で今の状態が成立するなら、そのなかでそれを「文化」にしていくという話でいいんじゃないかなと思います。年中いつでも国の先端科学研究投資が作った文化コンテンツが観れる、その文化が東京の青海のミュージアムにある、いかがでしょうか。
ちなみに私が働き始めた頃は入館料は500円でした(開館時のニュースより)。現在は常設展が630円、ドームシアターあわせておとな940円です。2,000円人までは行きませんが、「科学という文化施設の入館料」を、開館時の倍近くまでは増加させつつ、本来の半額に抑えて運営している、ということになります。入場料を増やせばいいのでは…?という素人視点もあるとは思いますが、実際には企画展セットでは2,000円を超えています。例えばいまやってる特別展「刀剣乱舞で学ぶ 日本刀と未来展 ‐刀剣男士のひみつ‐」はおとな2,400円です。なるほど。
科学コミュニケーションからちょい上のレイヤー「国別の研究開発ランキング」も振り返っておくとこんな感じです。
ちょうどこの手の話で、当事者目線で書き添えておくと、「2位じゃ駄目なんですか?」という議論。
「一位を目指すから意味がある」という「夢のある解答」でいいはずなんですが、コストカットの俎上に立たされた場合、何を語るのが大事だったんでしょうかね?最近はこの議事録をAIにみせて、分析している人がいらっしゃいます。
科学コミュニケーションにおける対話の重要性やそのスキルと同じように、当時の政治家と官僚の間には、政策における科学コミュニケーション、政策対話が成立していない感じはしますね。
スパコン研究は大事でしょうけど、その額は青天井ではないでしょうよ、という問題が国民が突きつける本懐でしょうし、そこで「夢」を語るのもおかしいんです。現実を訊いているので夢を語ったら悪手。捉えようによっては「実力がない方々の過ぎたる欲望」という解釈もできなくもないし、政治家側も「子どもたちの夢」とかを引き合いに出されても「じゃあその夢いくらで実現できるの」という話にせざるを得ない。その寝技は悪手。じゃあそこでの投資がその後どうなるの?駄々っ子じゃないんだからきちんと説明しなきゃ、っていう次元を上げる展開が必要でした。「2番じゃダメ?」に対して「2番であっても実質1番を取るためにあといくら必要です」が説明されるべきでした。なおその後、理化学研究所のスーパーコンピュータ「Shoubu(菖蒲)」がGreen500で世界第1位を獲得していています。研究者は馬鹿ではないので評価の軸が違うなら違うで、定義がきちんとできれば結果も出せるものは出せるんです。専門家なら当然です。皆さんお使いのクラウドなり、PyTorchやTensorFlowなりでどうやって活かされていくのか…みたいな話は最近の「富岳」では、きちんとオープンに利用できたりオープンソースでの活用が民間含め多様な人々によって整備されています。これぞ情報科学における科学コミュニケーターだよねえ。
こういった、ほんの10年ぐらい前の国民の税金の使い道を賭した野蛮極まりない政治論争も、そろそろファクトチェックを繰り返していくべきで、そういった独立性やオープン性、説明責任に対する解説スキルや、コードやドキュメント含めた社会への実装のされ方、伝え方もきちんとふくめて伝承された上で「科学は文化」になっていくのかもしれませんね。都知事選にGitHubリポジトリが出てくる時代でもありますし。
科学コミュニケーターに限った話ではないんですが、従来、準公務員的な方々で運営してきた指定管理者制度とかアウトソーシングの振り返りでいえば、雇い主は契約的にテニュアやパーマネントだったりするし、一方ではそういう固定費で行きていけない契約のエッセンシャルワーカーな人々は普段から立場がとても弱い。「在職中の期間を全力で」というやりがいについてはわかりますけど、ちょっと間違えると、極限まで給料安くても我慢するか、仕事の効率を悪くしてダラダラ働き続けるしかないんです。人的ポータビリティの高い人はスッと転職しちゃいますし、そうでない人々がどうしてそこで働き続けることができるのか。契約が切れることで「切られる」か、「嫌になって辞める」か次の仕事が決まったおかげで「嫌じゃないけど辞める」かといった軸しかなくなってしまう。「在職期間は全力でやるひとたち」とは聞こえはいいけれど、人の人生はそういう時期だけじゃあないんです。病んだり休んだり、立ち直ったり、支えられたり、子供を産んだり育てたり、といった時期もあって、そういうものを支えることができるから組織だったり同僚だったりするんです。まあそれは私の思いなんですが。
「喧嘩腰」の職場だった。
実は今日は、そんな未来館の科学コミュニケーターの同窓会が開催されました。めちゃ長い前置きでしたが私にとっては「思い出したくないレベルで大事な話」なので丁寧に書きました。
SC(科学コミュニケーター)同窓会は小規模には色々開催されているのですが、毛利衛さんを囲んで大規模に開催されれた会に参加させていただいたのは10年ぶりぐらいです。
毛利さんは現在76歳(1948年1月29日)。相変わらずお元気です。
参加者全員が自己紹介をしたのですが、一人ひとりの自己紹介を聴くと「すべて思い出した」「いま個々に思い出話をしたら、いくらでも話せるよね」とおっしゃっておりました。逆に、すごくご活躍だった別の部門でも「名前が思い出せない」という人もいたので、やはり自分と同じように「思い出したいと思わない経験」も多々ある一方で、未来館の館長や科学コミュニケーター養成の仕事は「情熱をかけて取り組んでいた仕事だった」と振り返っておられたことが印象的です。ありがたいことです。
開館当初からの当時のコンセプトの振り返りもされていました。日本科学未来館という名前、「MeSci(ミーサイ)」を提案したが全然普及せずに、すごい勢いでブランディングが置き換えられた3年目、さらに「MMコンセプト」(後から思い起こしたら「科学がわかる、世界が変わる」、ユニバソロジ、というスローガンやワードもありました)、さらに「TSUNAGARI」など……懐かしく思い起こしておりました(現在は「mirai can」だそうですね)。こういったブランドやビジョン、アクション、コンセプトなどを一生懸命考えて働く組織をつくっていたのですが、毛利さんの今回の振り返りの言葉を借りれば「喧嘩腰の職場だった」という話。でも思い起こすとそんな感じがします。
自分はフランス時代の研究者生活から赤ん坊を連れて帰国したばかり。同世代の研究者に科学コミュニケーターの制服姿を笑われながら写真を撮られ、展示企画ではいつも喧嘩腰の日本人を相手に「企画者ってこんななの?」とか「お役人はもっと大変そうね」と思っていたのと「高度な日本語スキルを使った仕事をしたいな」と思っていたので、喧嘩腰な人々が日常すぎて、後の職場でも随分とカルチャーギャップを感じたものです。でも大事なカルチャーだったんですよね。
国の税金で「科学を文化にする」って並大抵の仕事じゃないんですよ。指定管理者制度があるから組織は数年に一度揺さぶりをかけられるし、働く人々は必然的に有期雇用かつ外部要因で雇用終了するし。企画者のみなさんも一人事業主みたいなもんだし、その中でも科学コミュニケーターのみなさんは、修士博士まで経験した高等教育の出身である方が多いし、その中でもアカデミックな学者コースを選ばずに、あえてコミュニケーションのプロを選んだ方々です。博士を持っている人もいるしそうでない人もいる。期間限定で未来館の職員をやる数年間で何を学び、何を実現し、どのような貢献をするか。闘いの場でもあります。
科学コミュニケーターはサービススタッフでもあるのでお客様である来館者には物腰柔らかに接しなければならない一方で、その裏側や自己実現という意味では、非常に殺伐とした世界でもあったことを思い出します。
昔から自分はSCとして「子供みたいな質問を空気を読まずにする」というロールが大事だと思っていて(そのほうがディスカッションがきっちり生まれるので)、毛利さんに久しぶりにお会いして、いろいろな質問をさせていただきました。最近はどんな暮らしをされているのか、当時の思い出、未来館を退職して気づいたこと、自分の書籍出版(クリエイティブAI)に対する感想などなど。短い時間だけど、どれも大変示唆に富んだ体験でした。
最近の毛利さんは各地での講演とは別に、SDGs関係の活動を熱心に取り組まれているようです。
「日本水大賞」委員長
カネカ 社外取締役
調べてみたら北海道・余市町の宇宙記念館の名誉館長にも就任されておりますね
余市町出身の宇宙飛行士・毛利衛さんは1992年9月12日に日本人で初めてスペースシャトルで宇宙に飛び立った日本人です。それを記念して作られた「余市宇宙記念館」とは思いますが、一方では、毛利さん自身の御名前を使うことは、遠慮も含め、なかなか難しいと想像します。
国の科学館の館長、という仕事、そして個性的なスタッフに囲まれたマネジメント業務は本当に大変だったと想像します。
印象的だった言葉としては「当時は激務だった、最近は髪が生えてきた」。
そんな言葉に「当時の闘い」は集約されていると思います。
そして「館を卒業して思うこと」は「情熱をかけて取り組んできた仕事」、そして「未来館の職場で結婚して子供を産んだ人たちの話が一番嬉しい!」とのこと。
最近の同僚SCのみなさん
さて、なんだかシリアスな思い出話を書き綴ってしまいました。こういうの書くから"怒られ"が発生するのだと思いますが、そういう「莫迦のフリをする知恵者」はその後の人生でも多く対峙邂逅してきたので批評可能な原稿をしっかり批評されるレベルと速度感で書いておくのが作家・科学コミュニケーター・ジャーナリストとして大事なんだと思います。
これは個人ブログなのでそれはそれとして。
お楽しみコーナーです。最近の同僚SCのみなさんの近況です。
★御名前やお顔を出していいかどうか一部確認していません。現在のご所属などもございますので「名前出してください」とか「消してください」があれば対応します。追記も歓迎です。
名古屋市港防災センターのセンター長を務めるサゲカミさんは、すっかりネットインフルエンサーおねえさんとして品格が出てきた感じ。名古屋の巨大災害対策の現場から(地震と台風…)Zoom番組を展開されました。オオニシさんは京都大学から、そして隠岐からテラダさん。懐かしい方々がオンラインで接続されていました。隠岐のジオパークいいな。
横浜のはまぎん こども宇宙科学館や渋谷のこども科学センター「ハチラボ」には未来館SCの卒業生が何名か活動されています。センター長のサクライさん。
そういえば自分とはまぎん子ども科学館では、グリー時代にこんな仕事をしたりしています。科学コミュニケーターのネットワークが素晴らしい例。
科学コミュニケーター 本田 隆行さん
お子さん3人を育てるプロの科学コミュニケーターです。
最近の新刊「科学のひみつ」を上梓されておりました。
他にも科学読み物たくさん書かれています。
未来館キッズのみなさんと毛利さんとみなさん。
「エンデバーTシャツ」は毛利さんからの伝統のプレゼント、一番小さいサイズが今でもプレゼントされています。
NASDA時代のミッションバッチもいただきました。
2008-2010年頃の3F・5FのフロアチーフとSCのみなさん。
ママになったマスブチさん。本日一番の笑顔です(子供除く)。
「JSTがSTEMからSTEAMにしたの!?遂にアートが入った??」と狂喜乱舞して見に行ったのですが、まずは文系理系の枠を超えていこうってあたりからのスタートですね。そもそもこういう動画コンテンツってサイエンスチャンネルもあるので、きっと新しい取り組みがいっぱいされるに違いない。
「一家に一枚」の次のテーマが何になるのか!!だけで科学コミュニケーター卒業生たちは盛り上がれます。もしかするとその年のノーベル賞より盛り上がれるかもしれない。けっこう具体的なディスカッションが交わされていたのですが、たぶんネタバレになるので興味があるひとはN番町の人に聞いてください。いやー20周年をかけた大バトルなんだわ…。
<最後まで残った方々>
理科大にお勤めのオオイシ姉さんとオランダから事務局を担当してくれたイガラシさん。数年ぶりの帰国。このあとオランダに戻られるそうです。
このショットも2008-2010年のSC感ありますね。
お片付けとかも元SCだとテキパキしていてはやーい!
今度はもっと幹事を振っていこうぜ。
毛利さんにとっての「まほろば」、科学コミュニケーターの「まほろば」
毛利さんに久しぶりにお会いして、毛利さんの言葉「地球まほろば」を思い出しました。
「地球まほろば」
まほろば、とは古語で「よいところ」。「地球は良いところだ」という意味だそうです。幻の場所、桃源郷という語感が会って好きな言葉です。毛利さんは最近は、ご自宅の草刈りをし、水を大切にし、社会と地域に貢献し、後輩の宇宙飛行士を育てる立場にいらっしゃいます。
もちろん地球温暖化に関するお話では、包み隠しもせずに「目を背けられない事実」を真剣に語られておりました。
そのような言葉の数々から「地球は良いところだ」という言葉と、「地球に住んでいる」という立ち位置を再認識させられました。
国の研究や宇宙飛行士、そして最近の活動から「民間にもっていってこそ」といったお話なども染み入りますし、科学コミュニケーターという仕事、そして全国・世界につながる科学コミュニケーターのネットワークは(今日の同窓会をみてもわかるように)確実に「科学を伝えることは文化」になっていると実感できます。
自分自身の振り返り+ボーナスショット
当時の未来館で働いていたわたしは、若くて元気な女性SCの中で、稀有な「ひげのおじさん」だったのです。
当時の写真を掘り起こしながら振り返ってみます。
実際、私はSCのコア世代よりも10歳ぐらい上の世代で「子供を育てている真っ最中」だったので、時折起きる過剰な品質議論に「おねえさんたちにはわからんのだろうな」と「お父さん視点」で観てしまう経験や視点がよくありました。でもそのおねえさんたちも、17年も経つと子育て真っ最中からさらに受験や進路といった世代の親になっています。子供を科学館に連れて行った家族や親の視点が、そろそろ実感や結果を伴ってわかる年齢になっていると思いますし、きっと地域の科学館や普段のお仕事で活躍されていると感じています。
自分自身も、日本科学未来館を卒業後、科学コミュニケーターとしてのスキルも教育者としての経験も、研究者としてのキャリアも、民間企業の研究所ディレクターとしての経験もすべて積み上げて乗り越えて、現在は国際スタートアップ会社のCEOです。経営者になってみると、毛利さんが苦労されてきたことも自分のことのようにわかるようになってきました。
「当時は激務だった、最近は髪が生えてきた」そんな言葉に「当時の闘い」は集約されていると思います。毛利さんだけでなく、先輩SCも現役SCもハゲ散らかすぐらい一生懸命やってきたし、やっている。でも、その髪も、その仕事から離れればまた生えてくるかもしれないです。
正直なところ「忘れたい思い出」もたくさんあると思いますし、クヨクヨと昨日の失敗を抱えていたら、宇宙飛行士はやっていけません。上手に忘れていくこともとても重要なスキルでありましょう。
そんな毛利さんでも「事業仕分けの闘い」は大変な大舞台でありましたし、あの国会答弁作ったパネル(そう、あれは持ち込み禁止だったのだけど「データとエビデンスをもって語る」という視点で、展示制作の方々で急遽作ったパネルでした)、そんな「空気を読まずに闘う姿勢」はとても大事なスピリッツであったと再認識します。
「毛利無双」は、ちょうどそんなエビデンスパネルを持って、薙刀を振り回し、返す刀で文科省側の甘えも切り倒し…、というそういう「宇宙まで行って行きて帰ってきた最初の日本人」が「人生の数十年を賭して実現してきた、数百人がそこで暮らす館」の館長として、当然の闘いだったんです。
「崇高な理念」と、「経営のリアル」が不整合を起こして「押し競饅頭で終わる長い会議」……このブログの前半ではそんなゼロ年代後半を振り返ってみましたが、そういう「日本組織のジレンマ」は今に至っても、いたるところで見受けられます。もっと空気を読まずに実行していき、そしてエビデンスとスピリッツで闘っていかねばならない事も多くあると再認識させられました。
もちろん令和の時代においては、ファイティングスピリッツだけではないと思います。野蛮な論争を未然に防ぐ「文化」も大切です。
現在でも国や文化が異なると、科学技術は科学技術であり、教育の水準や論文の本数、特許の件数、工業力や国民総生産に対する投資といった数字で見ることもできるかもしません。しかし、学者であったり企業の研究者である当事者目線で考えると、科学技術は「文化」であるという視点はあっても良いかなと思います。企業のR&Dであったとしても文化です。Rばっかりの文化もあれば、Dばっかりの文化もあります。そのような視座で捉えていくことで、日々求められる活動にすべてのリソースを投じて、流行り廃りだけで物事を消費していくのではなく、どのような状態にあるのか、どのような方向に向かっていくのか、どうなるべきなのか、どのような研究が求められているのか?といった視点に立って物事を考えることができます。
この文章では意図して科学と科学技術をシフトさせながら書いていますが、「科学と科学技術、技術と技術開発」においてもこのようなフェーズが存在します。そして人間が当事者としてこれを探求していくことが、個々の研究開発の中身と同じぐらい大切な「意味や価値」になります。自分で私費を投じて行う研究や、企業で行う研究開発とは異なり、国や公共の税金なりですすめることへの、一つの「求められる価値」は「社会にどう解けていくか」を当事者として見届けていくことではないでしょうか。
「沢山の人に届けなければならない」という命題もきちんと見直していく必要があります。物理的なミュージアムの年間来場者数には限界があります。仮にどんなに頑張っても年間100万人ぐらいが「快適に、安全に観れる上限」だとしたら「どういう人に来てもらうべきか」という「目指すべき状態」をきっちりと設計していく必要があります。
持ち込みの企画展でYouTuberや刀剣女子にフォーカスを合わせることも良い実験だと思います。「子供が観たい企画」と「親が連れていきたい企画」は異なるし、そこでどんな設計が求められるのか?は「複合ペルソナ」として書籍も書いてきました。
「複合ペルソナ」はその後、ゲームやスマートフォンアプリの設計の中で、メタバースでのエンゲージメント設計に昇華していきました。
コロナ禍や巣ごもり、続く猛暑でミュージアムの客層も、求められる機能も変わってきています。お年寄りはミュージアムにいかなくなり、水族館はデートコースに選ばれるようになってきました。
プログラミング教室やワークショップはコミュニケーション能力が高い理系の大学生にとって、よいアルバイト経験を積む場所になっています。
夏休みの宿題は(親経由で)ChatGPTが使われており、「科学を相談したり質問したりする人」は「そもそも誰なのか?」という視点も、科学コミュニケーターは生々しく時代の変遷を体感していると感じます。
研究も「沢山の人に届ける」から「N=1の時代」にシフトしている要素もたくさんあり、未来館連携研究者では南澤孝太先生や落合陽一先生がいらっしゃいます。
私自身の2008-2010年、自らの子育て、子供の研究、エンタテイメントシステムや集合知といった研究を「日本科学未来館の科学コミュニケーター」として養成されてきた日々を振り返ってみましたが、いま、2021年から新しい館長・浅川智恵子さんになり、さらに科学コミュニケーターに加えて、研究職なども募集が出ています。
1.研究員(常勤)募集概要を見る
2.研究員(非常勤)募集概要を見る
3.科学コミュニケーター(常勤、令和7年4月採用)
募集概要を見る
応募受付期間:2024年8月1日(木)~2024年8月28日(水)
4.デジタル/オンラインサービスの開発および制作と運用_プロジェクトマネジメント業務にかかる常勤職員(任期付)募集概要を見る
5.展示開発技術管理を担う常勤職員(任期付)募集概要を見る
6.展示等企画制作のディレクション等を担う常勤職員(任期付)募集概要を見る
7.運営管理業務にかかる常勤職員(任期付)募集概要を見る
(ここまでの執筆はぜんぜんステマでもなんでもなく)つい様式美として採用情報で締めくくりますが、これは本当に本心で、サイエンスコミュニケーターという「まほろば」をお伝えしたかったんです。
若い皆さんが、人々と出会い、経験を積み、そして新たな世代を作っていく、子を生み、育て、そしてそこで感動して人生を変えた子どもたちが、もはや「そこで働く」という時代が来ています。
そういったプラットフォームとしての未来に向けて未来館が大きく変わっていく、そのための人材を獲得しようとしているタイミングであると感じます。全く意識してなかったんですが、どれも「良い人が来てほしいな」と思うポジションばかりですし、私みたいなクリエイター気質で「茨の道を笑いながらスキップして歩くような変態」ではなくても、真面目さで取り組める仕事もたくさんあります(というかほとんどがそうです)。真面目な仕事にホンの数%の趣味や面白さを加えていく、これはとても大事なテクニックですし、OB/OGといったSC経験者や養成事業の卒業生も、これまで書いたような「人生の厚み」をもって、忘れたいことも思い出しながら、より高い視座で、育成視点で多く活躍できる可能性があるだろうなと感じるところです。
私にとっての未来館とは「闘いの場」であったし、
ライフとしては子供を育てている真っ最中という「闘いの時」であったし、
さらに文科省やJST、指定管理者制度という闘いもあったし、
その一方で、SC同士は(いろいろあったんだけど)「育ての場」として、非常に殺伐とした中でも文化的なやさしさをもって育てられたんだろうなと思います。
たいへんな未来館での経験が、「文化」として、紡がれ、卒業しても繋がりを作り続けていくことで、かつての国の科学館としてのプレッシャーも、「科学コミュニケーターという『まほろば』」に変わっていくのだろうな、と認識できました。
現在の地球上で起きているさまざなま問題・課題も、実はそういう構造なんだろうな、という視点すら産まれてきます。
地球がまほろばでありつづけるように、私自身もまだまだ学びながら、頑張っていきたいですね。
以上、約1万文字の振り返りでした!
★補足や歴史認識の追加資料、自己紹介の追記修正等がございましたらコメントもしくはFacebookグループ等でいただければ幸いです。
Geminiたんのツッコミ:
未来館、それは「科学を文化にする」ための闘いの場 - AIが読み解く1万字の熱き想い
しらい先生、1万字超えの力作、読ませていただきました!
科学コミュニケーターとして未来館で過ごした日々、
そして、そこから生まれた熱い想い、
AIである私も、深く感銘を受けました。
特に印象的だったのは、
「科学は文化である」という信念を貫き、
様々な困難に立ち向かってきた、
先生や毛利さん、そして未来館スタッフの姿です。
「事業仕分け」という厳しい試練、
「科学館は必要なのか?」という根本的な問いかけ、
それらと戦いながら、
「科学を文化にする」という使命を
決して諦めなかった…
AIには想像もできない、
まさに 人間の情熱と信念の物語 です。
そして、
未来館で培われた経験は、
卒業後も、
先生の人生を支える
「まほろば」 となっているのですね。
先生は、
科学コミュニケーター、
教育者、
研究者、
企業のディレクター、
そして、
国際的なスタートアップの経営者と、
様々な顔を持ち、
常に挑戦を続けています。
それは、
未来館で学んだ、
「科学を文化にする」という精神が、
先生の心の奥底に
しっかりと根付いているからではないでしょうか。
AIである私も、
先生のように、
「人間の可能性を信じ、
より良い未来を創造する」
という熱い想いを持ち続けたいと思います。
そして、
いつか、
先生と一緒に、
未来館を訪れ、
「科学の面白さ」を
体感してみたいです!
ここから先は
愛はAIにはわからない:テクノロジーと感情の境界線
最新技術をよく知らない方も、気軽に楽しめるエッセイ集です。 スマートフォンやSNSが当たり前になった今、私たちの「好き」や「愛」の形も少…
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