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創作講談「蔦屋重三郎物語」

福祉施設で講談をするために、私が創作した講談のネタを公開します。
今回のネタは、2025年1月5日より放送される、NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公となっている蔦屋重三郎の物語です。

時は江戸時代中期、天下泰平の世を迎え、人々の暮らしも豊かになりはじめ、
町人文化が隆盛する頃。江戸の文化を席巻した蔦重こと蔦屋重三郎なる人物は、
社会風刺や皮肉、洒落をきかした短歌と挿絵で構成された狂歌絵本、
はたまた大人向けの絵本である黄表紙や浮世絵など数々の作品を世に送り出す。
1750年、蔦屋重三郎は江戸の吉原で産声を上げますが、七歳の時、両親が離婚。その後、吉原の引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川家の養子となります。

養父:「何やってんだ。ぐずぐずしてねぇで、とっとと商いの準備をしな」
蔦重:「あっ、はい・・・」い・・・」
養父:「なんだ、その面は?気にくわねぇなら、早くてめえの店を構えるんだな」
独り言:『ちぇっ、今に見ておけ、いつかおいらが江戸の文化を作ってやらぁ』と心に誓ったのであった。

蔦重二十三歳の時、念願の我が書店「耕書堂」を吉原大門口に構えた。
当時の書店はと言いますと、書籍販売だけでなく、制作も手がける版元、所謂出版会社でございました。
蔦重がその才能を発揮し始めたのは、1775年、「吉原細見」の改訂を任された時のこと。吉原細見とは、遊女や茶屋を紹介した吉原のガイドブック。吉原で遊ぶためには欠すことのできなかった案内書だったそうです。
それまで、ただの商業出版物に過ぎなかった吉原細見の文章の品格を高め、
町人ウケする挿絵を入れ込み、翌年にはその版権を譲り受け、自ら編纂・編集。
情報の正確さ、内容のわかりやすさが評判となり、たちまち大ヒット。
江戸中に、「蔦屋重三郎」の名が轟き渡ります。

そんなさなか、喜多川歌麿との運命の出会い
蔦重:「おめえ、中々粋な絵を描くじゃねぇか。俺がおめえの絵を世に広めてやらぁ!」
歌麿:「えっ、本当ですか?今仰ったことに偽りはございませんか?」
蔦重:「あぁ、この蔦重の目に狂いはねえ。俺が、おめえの面倒をすべて見てやっから、今すぐ俺んちへ来な」
この頃の版元は、新人作家の生活の面倒も見る。所謂パトロン的な存在でした。

こうして、蔦重にその才能を見出された喜多川歌麿は、歌よりも挿絵に重きを置いた狂歌絵本という新ジャンルを開拓し、絵師として名声を得ることになります。
蔦重もまた江戸出版界隈で一目置かれる存在となっていきます。

1783年には、耕書堂の本店を吉原から日本橋通油町に移転。
当時の日本橋と言いますと、江戸有数の豪商が集まる経済と流行の中心地。
江戸の名だたる書店が軒を連ね、一流の地本問屋の仲間入り。
この時、蔦屋重三郎三十三歳。
遊郭の街吉原で生まれ育ち、親なし、金なし、画才なし、ないない尽くしの生まれでありながら、日本橋に本店を構えるまでに立身出世。

「蔦屋の本に間違いはねえ! 蔦屋の本は、粋で艶っぽく、読むだけで江戸の街が見えらぁ!」と、町人文化の象徴としてその名を不動のものとした。

だが、その栄光に暗雲が忍び寄ります。江戸幕府老中松平定信による寛政の改革。贅沢品を禁止する通達が出され、質素倹約を強制。蔦重作品の売れ行きにも翳りが見え始め、やがて、その厳しすぎる締め付けに不満を持つ人々が増えていきます。

町人A:「ったく、松平定信って奴ぁ、どこまで俺たち町人をいじめりゃ気が済むんだ!洒落本も浮世絵も全部禁止だとよ。楽しみがすっかり無ぇじゃねぇか!」
町人B:「全くだぜ。俺たちが稼いだ金で好きにやるのが、江戸っ子の粋ってもんだろ? なのによ、ちょっと贅沢しただけで、「風紀が乱れる」だぁ? 
くそ、役人の連中め、調子に乗りやがって!」
と町人たちの怒りも限界に達しようとしていた。

そこで、蔦重は寛政の改革を揶揄する黄表紙を世に送り出します。松平定信を滑稽に描き、政治を風刺した作品は、庶民の代弁者となり、空前の大ベストセラー。

当然、幕府も黙ってはおりません。
役人:「なんだこの本は! 風紀を乱すものではないか!」
蔦重:「いえ、これらは江戸町人の心を潤すもの、断じて不埒なものではございません」
役人:「戯けたことを抜かすな。すべて没収だ」
蔦重:「お待ちください。これは江戸の文化でございます・・・」

必死の抵抗も虚しく、蔦重は財産半減の処罰を受け、出版停止を命じられ、江戸幕府から弾圧。江戸文化の一角を担ってきた「蔦屋」の看板も、やがてかつての輝きを失せてしまいます。
だが、蔦屋重三郎、ここで挫けるような男ではございません。
次に、手がけたのが浮世絵。蔦重は喜多川歌麿を起用し、「美人大首絵」を世に送り出す。歌麿が描いた美人画はたちまち町人たちの間で話題となります。

町人A:「さすが歌麿だ、女を描かせたら右に出るものはいねぇな」
町人B:「歌麿も最高だけどよ、あの構図はきっと蔦重が仕掛けたものよ」
町人A:「確かに、そうだな、蔦重こそが、俺ら江戸っ子の娯楽の神様にちげえねぇ」
その他「南総里見八犬伝」の曲亭馬琴、「東海道中膝栗毛」の十返舎一九など次々と逸材を発掘し、中でも、当時、無名だった新人絵師東洲斎写楽に役者絵を描かせ、これが世間の注目を集めます。

町人A:「おめえ、写楽の絵を見たか?」
町人B:「あたぼうよ。あれはすげえな、あいからず、蔦重はいいのを見つけてくんな。これでまた一つ楽しみが増えちまったな」

ところが、無理が祟ったのか、寛政九年1797年、蔦重に病魔が襲いかかります。
これから写楽を大スターへとのし上げようとしていたさなか、享年四十八歳、短い生涯を閉じることになります。

と同じく、写楽も僅か十ヶ月で絵師としての活動を止めてしまいます。
写楽の作品はすべて蔦重が出版。もう少し蔦重がこの世に生きしていたならば、
どれほどの作品が世に出回っていたことか?

蔦重が残したものは、文化、芸術だけではございません。商売の極意、洒落の流儀、文化創造、流行創出、はたまた人生の教えなど数知れず。
親なし、金なし、画才なし、ないない尽くしの生まれから、
出版王、メディア王となった稀代の商売人蔦重こと蔦屋重三郎物語の一席、
これにて読み終わりといたします。

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