【最新作云々71】届け、愛のメッセージ... 人を超え,虫を超え,それぞれの奉ずる"救い"の形を巡って人知れず戦いを繰り広げるこの世界の片隅に映画『シン・仮面ライダー』
結論から言おう!!・・・・・・・・・・こんにちは。(:″*゜;)
先日の休日、とあるイベントにスタッフお手伝いで行ってきたんですが、チーバくんが来てたようで「ヒシッと抱きついてみたいな…」と思ってしまった、O次郎です。
今回はつい先日遂に公開となった邦画特撮の話題作『シン・仮面ライダー』です。
庵野秀明さん脚本・監督による「仮面ライダーシリーズ」のリブート作品にして、仮面ライダー生誕50周年企画作品。
初代のTVシリーズ『仮面ライダー』をモチーフとしつつも、そこに原作漫画『仮面ライダー』さらには他の石ノ森章太郎先生の原作作品のエッセンスを盛り込んだ"石森ヒーロークロニクル"的な感も有る入魂作。
ライダーや怪人のデザインは洗練され、戦闘シーンも切歯扼腕ぶりと流麗さとが同居した見せ場満載な様相を呈しているのですが、一方でその全編を通しての"スタイリッシュさ"にどこか逸脱を感じ、生命や人生よりもむしろ想いや心の有り様を謳う物語はどこかヒロイズムを否定し、インナーユニバースへと突き抜けてゆく終幕はもはや『仮面ライダー』とは別次元の世界線を感じたのもまた事実です。
鑑賞して自分なりに感じた良し悪しを書いていこうと思いますので、感想の一例として読んでいっていただければ之幸いでございます。
なお、ラストまでネタバレ含みますので未見の方々はご注意を。
それでは・・・・・・・・・・"愛が止まらない"!!
※ちなみに僕は昭和60年生まれなので、2~4歳ごろにリアルタイムで初めて観たのが『仮面ライダーBLACK』『仮面ライダーBLACK RX』、以降の小学生の頃はTVシリーズが全く無い中で『仮面ライダーZO』『仮面ライダーJ』『真・仮面ライダー 序章』等の劇場版ないしオリジナルビデオ作品に刮目しつつも毎年夏に関西準キー局の毎日放送で再放送されていた初代の『仮面ライダー』に親しみ、平成仮面ライダーシリーズ第一作の『仮面ライダークウガ』が放映される頃にはもはや中三で原体験には程遠く…という具合。
つまりはコンスタントに新作TVシリーズが発表されない中で、原点回帰作や原点そのもの、そして単発の意欲作・異端作に親しんできた世代、ということになります。
以下はそうした仮面ライダーファーストインプレッションを持つ世代の一意見としてお読みいただければ幸甚です。
Ⅰ. 作品概要
初代TVシリーズの『仮面ライダー』のキャラクターやギミック、敵怪人等をそのエッセンスを残しつつも現代的にアレンジし、二時間弱の物語にリビルドした逸品。
主演助演問わず知名度・実力とも定評のある役者さんが挙って出演され、昨年の『シン・ウルトラマン』から斎藤工さんや長澤まさみさんも脇を固める形で続投されていて『シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース』作品としての繋がりもより強まっており、特撮映画としてのみならず日本映画としても相当に気合の入った大作です。
本作は『シン・ゴジラ』以来で庵野秀明さんが監督を務められた実写作品ですが、上述のようにオリジナル版の『仮面ライダー』とは肌触りの異なる面も多いです。
その答えのヒントとしては、「(『仮面ライダー』を)当時観ていた人たちのノスタルジーと、現代の若者が楽しめるものを融合したものを目指したい」「僕が観たかったライダーを作るのではなく、僕と同じ世代に「こういうライダーも良いよね」と思ってもらえる、そしていろんな世代に楽しんでもらえる作品にしたい」あるいは"「新作」を作ることで自作でオリジナルを越えるのではなく、社会にオリジナルの魅力を拡げ、世間にオリジナルの面白さを再認識してもらうことが恩返し"というご発言があり、いわば、オリジナルの別ルートを志向した結果が本作、ということなのかもしれません。
その観点からして顕著なのが、石ノ森章太郎先生原作漫画作品のテイストの強さであり、具体的には勧善懲悪の快活な世界観からは外れた、内省的で善悪の境界の曖昧な、ひいては自我境界が歪な陰のある人物世界です。
こうしたいわば"醒めた"世界観が本作にて体現されたことで石森先生原作ヒーローとしてのドラマツルギーは果たされましたが、その一方でTVシリーズにて幼児が心躍らせた、弱きを助け強きを挫く、明朗快活に正義と生命を奉じる"熱い"物語性は鳴りを潜めており、血を滾らせて悪に切歯扼腕し友と友情に咽ぶライダーの姿を期待していた向きとは微妙にソリが合わない結果となったのではないでしょうか。
また、作品世界としても石森先生ドラマ的ながら、キャラクターとしても
『ロボット刑事』の主人公Kが形を変えて登場するなど、より"石森ワールド感"の強まった仮面ライダーとなりました。
永井豪先生らとは違い、作品間でのクロスオーバーを積極的に行うタイプの作家ではなかったので、そういった意味合いでの発展型の作品としての楽しみも加わっているというのも有ります。
そんな"新・石森ヒーロー"にして"アナザー・仮面ライダー"な本作についての以下、私なりの端的な好き嫌いでございます。
Ⅱ. 個人的ヒャッハー!!な点
・"改造人間"としての戦闘の極限が見られる類稀
これはもう昨今のTVシリーズと比較して、という前提ありきにはなってしまいますが、それにしてもサイドアームやガジェットを一切使用せずの徒手空拳同士による原始的な闘争を全編通して堪能出来る、というのがあまりにも素敵です。
光線やら衝撃波やらを使わず、各自の膂力と体術のみで雌雄を決する肉体言語が今日の特撮作品で実現し得た、というだけでウルッと来るものがあります。
玩具展開有りきのマーケットを批判するのは容易ですし、それを上手に物語に絡めた作品作りが生まれるメリットも承知はしていますが、異形を我が身に取り入れたからこその暴力とそこから来る孤独の相克のドラマは、やはり身一つであってこそだとあらためて感じました。
ハチオーグとの対決の際には刀剣を使用してはいましたが、それとで原作オマージュの上でのこと、アクションとしての手札が限られているからこそ見せ方に工夫が凝らされています。
・誰かが誰かの引き立て役ではない、それぞれの人生を全うするキャラクター達
ショッカーを離反する志の延長でしか本心を覗かせなかった父との折り合いに惑いつつ、SHOCKERの人工子宮によって生み出された生体電算機としての自己の存在を肯定し得ない中で本郷と出会い、自分の人生を見出したルリ子。
ショッカーの洗脳を受けつつも本郷とルリ子の尽力でその軛から逃れ、その恩義よりもジャーナリストとしての自らの性分から"好きか嫌いか"の基準を通しつつ戦いに身を投じる一文字 隼人。
怪人側にしてもSHOCKERでの待遇を良しとして之に与する者、己の美学の実践場所として属する者等々、実に様々であり、各々が所属組織以外のスタンスを明確にしているがゆえに登場シーンの寡占に関わらず非常にキャラクターが立っており、それによって群像劇としても見応えが担保されているように思います。
Ⅲ. 個人的ムムムッ!!な点
・人間の延長線上ゆえの佇まいと戦闘CGとの厳然たる開き
これは指摘されている方が多々いらっしゃって成程と思ったのですが、非CG場面のスーツをスーツアクターでない俳優さんが演じられているシーンが多い分、どこか立ち姿がヌボッと見えて画のキメとしては締まらないところも多いです。
仮面ライダー第0号・チョウオーグを演じる森山未來さんは舞台畑なこともあってか、佇まいも動きも堂に入っていましたが、そのぶん他の怪人と明らかにトーンが違っていたように見えたのも確かで。
一方でというかそれが故か、実際の戦闘シーンはCGの比重がかなり高いため、ドラマパートからの画の飛躍があり過ぎるうえに、原典からの地続き発展を期待する向きとしては生身の超絶アクションが見られずヤキモキもしてしまったのが正直なところです。
加えて超絶レベルのCGにしてしまうと仮面ライダーの次元を超えてしまったのでしょうが、それがゆえに海外展開を考えるとクオリティー勝負ではどうなんだろうというところもあり、自縄自縛感は感じてしまいました。
・すべては極私的な物語なり
そして個人的に一番の引っ掛かっている部分がココです。
本郷は自分が闘う意義を見出し、それを認めてくれる仲間を得てその後継者を得たことで礎となり、ルリ子は自らの父親と兄に対する想いに区切りをつけつつ本郷との交流の中で人間的我儘も経験し得たことで最期に人として生きられたことに満足し、一文字は特異な状況下で出会った人々との事件を通して好奇心を満足させつつより一層の"好き"を貫く。
つまりは、周囲との関わりは必要としつつも基本的には自己完結した人々であり、根っこのところで他人に守られること救われることを必要としているとは思われません。
それゆえに被庇護者・擁護者としての傑出したヒロイズムが生じにくく、命よりも想いに重きを置く宗教的なメッセージ性が色濃い印象を受けました。
極端な不幸の人の救済のために一元的な精神的幸福を実現しようとするSHOCKERと、最大多数の最大幸福の死守のためにそれを阻止する仮面ライダー達ですが、それも言い換えれば野党と与党の鬩ぎ合いのようなものでイデオロギーの対立近しく、絶対善も絶対悪も有りません。
作中、SHOCKERに操られている人たちは登場しましたが、否応無く命を奪われようとしてる無辜の人々や目の前の無力にただただ無力な子どもの姿は無く、無条件でその場から救わなければいけない存在が皆無なのです。
それがゆえ、やはり"窮地に駆け付けて救う"というヒロイック成分も圧倒的に不足しており、"This is only the beggining"的なラストにもカタルシスに欠けるものを感じてモヤっとしたのも正直なところです。
求めるところは違うとはいえ、本作と印象的に近しい作品を思い出しました。CLAMP先生の『X(テレビアニメ版)』です。
”誰が生き残るか”よりも"どういう世界が残るか"であり、そうなると明確な決着を付けたとしても独善の問題は尾を引きます。
世代としての贔屓目は有るにせよ、『仮面ライダーZO』や『仮面ライダーJ』のように、理不尽に自由と生名を奪われようとしてる少年に救いの手を差し伸べ、少年の微かな成長とともに何処かへと去っていくような展開がいまの子どもにも、未見世代にも、そして海外にも仮面ライダーの根幹を伝えやすかったのではないか、と思ってしまいました。
Ⅳ. おしまいに
というわけで今回は最新の邦画『シン・仮面ライダー』について語りました。
緑川ルリ子を演じる浜辺美波さんが本作のヒロインとしてだけなく、そのCGの如き無謬性で作品を象徴するアイコンともなっていると思いますが、そのトーンに引っ張られてオリジナルに色濃かった"特訓"や"おやっさん"あるいは"怪奇"といった泥臭かったり見世物感のある要素が配されざるを得なかったような感が有ります。
無いものねだりとはいえ、もしその泥臭さや怪奇性すらも現代解釈にて盛り込まれていたら…とも思ってしまいました。
造り手側の庵野さんが"僕が観たかったライダーを作るのではなく"と仰られているからには、観る側にもノスタルジーと頑迷固陋との混同の厳禁を訴えているのやもしれません。
とりとめがなくなってきたので今回はこのへんにて。
それでは・・・・・・・・・どうぞよしなに。