【最新作云々㊻】湿地帯に暮らし、自らも湿地帯の生態系に身を委ねた"湿地の女"の物語... 魔女裁判の如き法廷で少女が愛と死と憎悪の渦巻く半生を訴える青春映画『ザリガニの鳴くところ』
結論から言おう!!・・・・・・こんにちは。(。・ω・)
今週末に迫っていた所属している市民劇団の公演が先週末に関係者の例の罹患で中止となってしまってただ頭が真っ白・・・・・・なO次郎です。
※今回舞台は中止にはなってしまいましたが、私の劇団との馴れ初めや直近の上演作品等について書いております。よろしければ併せて…。
今回は最新のハリウッド映画『ザリガニの鳴くところ』です…といっても封切りから一月近く経ってようやく観に行けた次第なんですか。
1950年代のノースカロライナ州の閉鎖的な海辺の田舎街、隣接する湿地帯で街の人気者の青年が遺体で発見され、その湿地帯にただ一人で暮らす年若い変わり者の女性が容疑者として逮捕され、偏見だらけの住民で構成された陪審員たちを向こうに、現役を退いた老弁護士と無罪を訴えて孤軍奮闘する法廷ミステリー。
しかしその一方で、ヒッピーの如き奔放な両親の家庭で育った主人子の少女が周囲からの侮蔑に見舞われながらも学を身に着け、限られた人間関係の中で二人の青年と恋に落ちそして…という青春映画としての側面も色濃いです。
そして何より、そこからのハートフルなエンディングに差し掛かったところでの冷や水を浴びせかけられるようなどんでん返し・・・"自然と生きるには何よりも生物として強かでなくてはならないのか"と嘆息するような余韻も有ります。
ミステリー好き、それも絶体絶命の状況を挽回する起死回生のヤキモキ展開に目が無い方々、鑑賞の参考までに読んでいっていただければ之幸いでございます。
なお、ラストまで含めてネタバレ含んでおりますので予めご了承ください。
それでは・・・・・・・・・・・・・ホセ=メンドーサ!!
Ⅰ. 作品概要と湿地の生態系の一部となった女性の人生あれこれ
"人気者の若人学生が死体で発見されてのどかな田舎町に激震が走る"という立ち上がりのプロットはどことなく『ツイン・ピークス』を彷彿とさせますが、その田舎町の住人たちが抱える様々な秘密を詳らかにしていった彼方とは違い、本作は専ら主人公である"湿地の女"カイアの特異な半生と疑惑の事件前後にフォーカスされています。
裁判の過程でカイア自身が回想する形で少しずつ明らかになっていく彼女の過去。
幼少期から今現在も住んでいる湿地での一軒家暮らしながら、昔は家族と同居。ボートでの魚釣りがメインの自給自足生活で、両親と兄と暮らしながらも父親は暴力的で気に入らないことがあると容易く家族に手を上げ、"世間には危険がいっぱいだから他人と関わるな"として学校にも通わせてもらえません。
時代設定は1950年代なのでヒッピーの登場はまだ先。作中詳しい描写は有りませんが、世代的にカイアの父は第二次大戦に従軍してその後遺症として心に傷を負い厭世的になってしまったのかもしれません。
興味深いのがカイアの湿地への執着・土着化であり、その幼少期に父の暴力に耐えかねた母と兄、果てはその数年後にその父でさえも湿地をあとにしたにも拘らず、そしてカイア自身はその時点で僅か10歳程度にも拘らず湿地暮らしを当然のごとく継続させています。
特に母が出て行った際にはかなり泣き喚いており、普通の幼児であれば父の目を盗んででも母の下に走る筈であり、母が出て行って数か月後に母が寄こした手紙("娘を引き取りたい"との旨)を父が燃やした際にもむせび泣いていますが、逆を言うとそれだけの辛い状況に在っても彼女にとって湿地での生活は捨てられよう筈も無い、捨てることなど考えられない至上命題だったということになります。
その後、いくら父が奔放とはいえ幼いカイアを置いて去ってしまったというのは驚愕ですが、彼女が他所への移住を頑強に固持したため呆れ返ってしまったのかもしれません。いずれにせよ彼女はたった10歳かそこらで生計を立てる(彼女の身の上を案じている街の日用品店の親切な夫妻に新鮮な魚介類を買い取ってもらう)ことを余儀無くされ、その単調ながら寄る辺の無い一人での生活を黙々とこなします。
そして数年後、そんなカイアの一見平穏ながら灰色の生活に一条の光が差します。幼少期に湿地でボートで幾度もニアミスし、父親の暴力から庇ってくれた街の少年テイト(演:テイラー・ジョン・スミス)が再び彼女の前に現れたのです。
鳥の羽は幼少期に二人が遊んだ際に集めた友情の証。
最初はテイトにも目に見えて警戒を見せていたカイアですが、昔馴染みでもあり、彼の献身的な態度もあって彼女の心のバリアが剝がれていきます。
若い二人だから…というわけではないですが、自然とお互いに恋愛感情が芽生えます。逢瀬を重ねる内に肉体関係に発展しそうになりますが、すんでのところでテイトが我に返って未遂に終わります。曰く、"君を傷つけたくない"と。
彼女自身と彼女と自分の未来を見据えての逡巡だったわけですが、女性にとってはそれも傷付く態度であったことは疑いようもなく、ましてそれまでの人生を湿地帯で過ごしてその生態系の一部となったカイアにとって自分がパートナーと認めた相手との関係はいくらその後のリスクがあろうとも何ら禁忌ではありません。
テイトとの年に一度の逢瀬の約束を反故にされてしまったカイアは激怒し深く悲しみますが、一方で新しい異性との出会いには決して否定的ではありません。
それは"執着が無い""切り替えが早い"という性格の問題ではなく、あくまで自然界に生きる生命の一種として異性との交わりは自然の摂理であり、それに抗うことこそ"湿地の女"たる彼女の倫理に反することなのでしょう。
その相手は近くの街に暮らす裕福なプレイボーイ青年のチェイス。
街の馴染みの日用品店に買い物に来ていたカイアをたまたま見掛けて見初めたチェイスは彼女にすぐさま声を掛けて湿地でのデートを申し込みます。
紳士的な態度とはいえ見るからに軽薄な相手なうえ、テイトとの経緯で手酷い思いをしているぶん、ただでさえ交友関係の乏しいカイアはすぐに拒絶しようものですがそこはやはり自然の摂理、いきなり彼女に迫ろうとした彼に怒りはしますが、手順を踏んで自分が魅力的な異性であることを彼女にアピールすればかのじょもやぶさかではありません。しかし・・・
ところがプレイボーイの悲しい性ゆえか、彼は自分が手に付けたものはすべて自分が維持していたいのです。"親の決めた女との間に本当の愛は無い。僕が本当に愛しているのは君だけだ。"と超ウルトラスーパーテンプレな言い訳ゼリフ(1950年代だから時代的にはまだそんなに擦られてないのかな…)を宣いつつカイアが彼にプレゼントした湿地の貝殻のネックレスを身に付けつつ関係維持を迫ります。
しかしながら一方のカイアも一度拒絶すると決めた相手だからには頑として翻意せず、これまたテンプレプレイボーイ行動倫理に則って自分の思い通りにならない彼女にチェイスが暴力を振い始めます…。
ここまでで中盤~後半に掛かって裁判を他所にたっぷりとカイアのそれまでの人生を振り返りますが、ようやく渦中のチェイス殺害事件が発生します。
湿地内の物見櫓からの転落死・・・・・・別れのトラブルになる前は交際し、現場の物見櫓もチェイスに連れられて行ったデートスポットということで動機は十分過ぎるぐらいであり、物証が何もないとはいえカイアにかなり不利な裁判です。
ここからはそれまでの青春ラブストーリーから冒頭に立ち戻っての裁判攻防劇。チェイスの遺族の無念を汲んでなんとしてでもカイアを犯人に仕立て上げようとする先方弁護士と偏見に満ちた陪審員たちを向こうに、ミルトン弁護士が老骨に鞭打ってそれらに立ち向かいます。
カイアが犯行日時の前日から別の都会街へ本の出版の打ち合わせに出かけていたことを証明するため、バス停の近くに住む住民や彼女の馴染みの日用品店の夫妻、果ては今や都会で軍人となっていた兄が彼女の弁護に現れ、絶望的な状況が少しずつ覆っていく様は最高にスリリングです。
極めつけは陪審員たちの良心に訴えかけるミルトン弁護士の名演説。
長時間の審理のうえ、遂にカイアは嫌疑不十分で無罪を勝ち取ります!!
晴れて自由の身となったカイアは長い拘置所生活の中で夢にまで見た湿地の我が家に舞い戻り、やがてそれまで何度も彼女に拒絶されながらも彼女に謝り誠意を示し続けたテイトと晴れて結ばれます。
さてそこから時は流れて何十年後、いつもの湿地のボートでの散策を終えたカイアはその帰路で老衰で眠るように息を引き取ります。残されたテイトが彼女の遺品整理をしていると、彼女の蔵書の一冊から彼女によるチェイスの生前のスケッチと彼の死亡現場から忽然と消えていた貝のペンダントが・・・。
チェイスは事故死ではなく殺害されたのであり、その下手人は誰よりも怪しいと目されていたカイアでした…まさか途中展開のみならず結末まで『情婦』に近しいものを感じるとは。
ともあれ、恐ろしいほどの狼狽を見せる老いたテイトでしたが遥か彼方の過去の話でありしかも愛するカイアの言わば汚点、その貝のペンダントをそっと海に投げます。
カイアは当時、ミルトン弁護士があまりに不自然だと論じていた、深夜に出先のホテルを抜け出して街へ戻る深夜バスに乗り、自分にDVを働いていたチェイスを湿地の物見櫓へ呼び出して犯行を完遂し、誰にも見られずまた出先のホテルに舞い戻ったのです。
終盤、実はミルトン弁護士も彼女が犯人であることを薄々勘付いていたフシがあるのですが、酸いも甘いも知った老法律家は最後に法よりも己の信ずる道徳に従ったのかもしれません。
当時のカイアにとってチェイスは自らの命とテリトリーを脅かす"天敵"となっており、であれば湿地に生きる生命の一種の常として自分の生きる術の結果としてその"天敵"を排除した、ということになります。
そしてまた同時に、生命倫理として名実ともに一人のパートナーだけを迎え入れるために、古いパートナーを"排除"してあらためてテイトを迎え入れた、ということでもあるかもしれません。
そして最後に気になることに、後日談的にカイアとテイトが結ばれて湿地の家で暮らし老いていく様がダイジェスト的に描かれましたが、どうにも二人の子どもが誕生したようには見えませんでした。
自然の生態系としては"繁殖"というのは何を以ても重要な要素だと思いますが、ひょっとするとその子どもの成長後の未来を巡ってテイトと仲違いすることや、それを背景としたテイトや我が子とのやがて来る別離を憂いてのことでしょうか。
いずれにせよ、その終生を母なる湿地の生態系の一部として過ごした彼女が、生態系のもっとも核たる行為について人間的な後顧の憂いを見せたとすればまたなんとも言えない含蓄を感じるところでもあります。
Ⅱ. おしまいに
というわけで今回は最新のハリウッド映画『ザリガニの鳴くところ』について語りました。
往年の瑞々しい自然の中で展開される少女の体験する出会いと別れは非常にストレートながらそれだけに万人に染みやすく彼女に感情移入することがその後の裁判劇をより一層面白くさせており、ラストのどんでん返しの事実としては胸糞ながら内容としてはハートフルな味わいが二倍三倍に楽しめました。
それもひとえに主演のカイアを演じるデイジー・エドガー=ジョーンズの純朴な美しさと佇まいあってのものだと感じます。
ミステリー映画はスッキリ胸が晴れる結末か、それともやがて来る暗雲を予期させる鬱な幕切れのどちらかに振り切った作品が最近とみに多いように感じますが、本作のそのグラデーションぶりはなんとも言えない味わいでした。
今回はこのへんにて。
それでは・・・・・・どうぞよしなに。
※フレッシュ!!!
さすが新体操やられてただけあって動きがキレキレやな。( ˊ̱˂˃ˋ̱ )ナ