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【みかん切り日記1】みかんを切りながら地域農業の変遷を想う

2019年12月
 秋冬番茶の製造も、茶園の作業も終了したので、11月以降は、お茶のイベントの手伝いや事務仕事などをしていたが、12月からは、我が茶工場を利用しているみかん農家Sさんのところへみかん切りに行くことにした。

12月6日、初めてみかん山へ行った。
 我が茶工場の若いアルバイト従業員の二人も少し前からここで働いていて、そのうち1人は、毎日午前中、市街地近くのイチゴ園で収穫作業に従事し、午後からこちらにみかん切りに来ている。
 その日の作業場所は、立派な農道を上った急傾斜のみかん園で、街、駿河湾、伊豆半島が一望できる素晴らしい景色である。
 みかん切り用のハサミでみかんを切ってビクに入れ、ある程度たまったらコンテナに空ける。ハサミは軽くてよく切れ、とても機能的である。ビクは、籠製でなく厚手のビニールシートでできたもので、フックを外すと底が開いてコンテナに流し入れることができる構造である。

 作業が始まるとシャキッ、シャキッという小気味いいハサミの音が響く。作業はそれほどきついものではないが、楽とは言えない。古い樹のせいか、樹体が大きく、枝は複雑にからみ、混みあっている。外周の収穫は手間取らないが、株の内部に着いた実を採るには体を擦られながら枝と枝の間にもぐり込み、不安定な姿勢であちこちに手を伸ばさなければならない。また、高いところは手が届かないし、地面に触れるほど垂れ下がった枝の実はしゃがんで切らなければならない。斜面の段々畑なので、足元も不安定で、滑り落ちないようにみかんの枝につかまりながら、という場所もある。
 最近整備されたみかん園は、傾斜も少なく、樹も労働効率を考えた小ぶりな仕立方法になっているが、ここは急傾斜の昔ながらのみかん園である。それでも夏の茶園の草取りと比べると、はるかに苦痛は少ない。「夏の草取りと比べて、時間がたつのが早いね」などと話しながら作業する。
 プロのみかん生産者は片手で収穫ができる。ハサミを使いつつ親指を使って実を掴み、切った実はビクに落とす。これだともう片方の手で枝を切りやすい位置へ引き寄せておくことができるので、とても効率的であるが、相当な熟練が必要だろう。

 作業しながら自分の能率を確認してみると、1時間切ってコンテナ2~3つ分(40~60㎏)というところ。これだと3t/10a採れる畑を10a収穫するのに一週間から10日もかかる計算だ。こんなペースではわたくし、使い物にならないな。精進しないと。
 さて、このみかん園だが、この山で今もみかんを作り続けているのは、この場所だけである。昔は、この山がほとんどみかん園であったというが、今は荒廃化したり山林化したりしている。
 かつて静岡県といえば「お茶とみかん」がイメージされたように、みかんも県の主要な農産物であった。今でも温州みかんの生産量は全国で3、4位を争っているが、昭和40年代のピーク時と比べると1/4である。
 しかし、みかんの相場はここ3年ほどよい。市場から求められる需要を賄えていないという。確かにスーパーで値段を見るとちょっと手が出ない。
 みかんは昭和40年代まで急激に増産が続き、昭和47年に大暴落した。そのため、国の政策として長いこと継続的に減反が行われ、生産調整がなされた。みかん園を廃園にすることに対し奨励金が交付されたのである。
 そしてみかん産地は次々と縮小した。かつては例えば大井川流域でも旧川根町付近まではみかんが生産されていたと聞いたことがある。静岡の美和や賎機もみかん産地であった。しかし現在、ある程度まとまった温州みかん産地として残っているのは、三ケ日に代表される浜名湖周辺と旧清水市地域、そして沼津市の内浦や西浦あたりだけと言ってもいい。全国的にも大幅に生産が縮小した結果、今は価格が高止まりしているイメージである。出荷価格が1㎏200円としても、10a当り3tとれば60万円になる。しかし、今もみかんを作り続けている生産者の多くは後継者を残せないまま高齢化してしまった。
 私が手伝っているこの農家は父親が主にお茶、息子がみかんを担当して経営しているが、地域に若手は極めて少ない。この父親は私より少し年上であるがそれでも生産者としては若い方だ。
 このため、彼のところには、やれなくなったみかん園を借りてくれないかという依頼が集まる。昨年だけで50aもみかん園が増えたという。
 だから、毎日私たちアルバイト3人が手伝ってもなかなか先が見えてこない。

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