茶工場に集う人々(その1)【お茶師日記8】
今回は、私がお手伝いしている茶工場(有限会社)に出入りするメンバーについて紹介します。
会社は、静岡県中部の清流に沿った山間部にあります。「茶工場」といってもお茶を加工するだけでなく、お茶を栽培し、収穫し、販売する。純然たる農業生産をしています。
会社としての正規メンバーは若い3人。30代の社長と30代の副社長が役員、そして高校を卒業したばかりのT君が社員です。
3人はこの会社の構成員ですが、その一方で社長は同じ集落にある茶農園の園主、副社長は少し離れた別の地区の茶農園の園主、そしてT君は副社長と同じ地区の農園の若き園主でもあります。会社としての茶生産と別に、それぞれの生産者のブランドで茶を生産販売する農園の園主でもあるということです。このあたりの組織の仕組みや、今の体制になった経緯を、簡単に書きます。
社長とT君の家は、元々自分の家で製茶工場を持ち、小売り販売までしているいわゆる「自園自製直販」の農家です。また副社長の家は元々共同製茶組合の組合員でした。
この地域では昭和40年代に概ね集落ごとに共同製茶組合(共同茶工場)が設置されました。各農家の投資の軽減と労働負担の軽減のためです。しかし茶農家がすべて共同工場に加入したわけではなく、個人で製茶工場を所有する「自園自製」として残った生産者もいました。それらの農家は、比較的規模が大きかったり、技術が高かったり、独自の販売先を持った人が多かったのではないかと思います。
共同工場に加入した人たちは、茶園管理は個人で行い、茶工場に生葉で出荷します。工場での製茶労務は交代制のため、労働が軽減されます。これは効率的ですが、反面、勤め人でも規模がそれほど大きくなければ茶生産が可能なため、茶の価格の低迷とも相まって、地域経済の茶への依存度を低める結果にもなりました。
生産した茶は大きな荷口で、JAを通じて市場へ荒茶出荷されますが、茶の価格が時代とともに低下してくると、茶生産をやめる人も出てきました。この地域の茶園は特に急傾斜地が多く、借り手もいません。耕作放棄が進み。共同工場に集荷される生葉量が減り、相対的に経費がかさむ、勤め人が多くなったので茶工場の製茶労務ができる人も減り、稼働が大変なります。
このため、「このままでは各共同工場の運営も立ち行かなる」と平成の初め、行政やJAは共同工場の広域での合併を推進しました。
こうして、合併によりこの地域では20ほどあった共同工場が順次再編され、3つの大きな製茶工場に統合されました。大型化しただけでなく、従来の「農事組合法人」から、意思決定や戦略的な活動が迅速にできる会社組織への移行を促し、経営や工場の稼働に携わる少数の中心的な農業者と、生葉を出荷するだけの農家を区分した組織となりました。その一つが現在の我が茶工場の前身である有限会社です。
さてこうして再編されて組織された茶工場も茶価格の低迷、生葉集荷者の減少、メンバーの高齢化により、再び運営が困難になってきました。我が社(の前身)も再編当初生葉出荷者は40人を超えていたのですが、徐々に減って10数人となり、一昨年、ついに解散を決めて動き出しました。実はすでに別の一つは解散し、もう一つの会社もメンバーが減少し実質的に経営に携わっているのは2戸となっていました。
我が社(の前身)が解散を決めたことを知り、同じ集落の個人経営農家だった現社長は、地域に大きな茶工場がなくなってしまうことが産地としての凋落につながると危惧し、現副社長に声をかけ、二人でこの有限会社を買い取る決断をしたのです。
実は先ほど述べた、3工場への再編成の動きとは別に組織されたもう一つのグループがありました。それは、自園自製として一匹狼的に茶業を営んでいた茶農家や、共同工場を抜けた有志が地域を超えて組織を作り、比較的規模の大きかった一人の工場を共同利用するという組織で平成の初めに組織されました。メンバー6戸はいずれも小売などによる独自の販売ルートを持っており、製茶施設は共同で順番に使って別々に製品を作り、販売は各自がするというスタイルです。
現社長と副社長は二人ともそのメンバーの若手で、二人で会社を買い取りました。
こうして誕生した会社は、従前の社名はそのまま、従来からこの会社に生葉を出荷していた10人余りの生葉農家を引き継いで2017年の秋から稼働しました。
そして、2019年からは、現社長と副社長が属していたグループの残ったメンバーも、従前の工場を閉鎖し新たにスタートした会社の施設を利用して今までと同様のスタイルで生産を続けていくことになりました。
(つづく)