【音楽】「才能」と「センス」はただの言い訳
今からすごい昔、僕がバンドをやっていた頃、対バンして知り合ったバンドマンと音楽の話になりました。その時に僕が「FFのサントラを今聴くと、植松さんって難しいコードもそんなに使ってないしメロディはメジャースケール、ナチュラルマイナースケールの範疇で説明できるのに、あんなに豊かに聴こえるのすごい。どうしたらああいう風になるんだろう」というようなことを言いました。
知り合いのバンドマンの人は「そうだね、センスがすごいからね」と返しました。
うん…、そうなんだけど、何か引っかかるな、とその時に感じました。
しばらくして自分のバンドで、スタジオでアレンジの相談をしながらジャムってました。僕が「こういうのは?」と弾いてみせると、あるメンバーが「ダッセエwwww才能ねえwww」と言ってきました。
うん…、まあ、そうなのかも知れないけど、…何か引っかかるな(ムカつくという感情以外に)、とその時感じました。
音楽家なら才能やセンスを分析するもんだ
引っかかったのはこれなんですよね。
二人とも「才能」とか「センス」という言葉を使うだけで、肝心の音楽を説明していなかったのです。
「才能があるから」と言ってしまえば、その人がどういう努力を積み重ねたのか、どんな工夫をしているのか、どういった思考プロセスを経ているのか、といった“本質”を探る機会を失ってしまう。
「センスがいい」でまとめてしまうと、分析や解釈の余地がなくなり、「なんとなくそう感じる」という漠然とした感覚で済んでしまう。
つまり音楽家にとっては、
あの人は才能があるから、で済ませると、その人の努力や研鑽をまるっと見過ごしてしまって、自分の糧にならない。
あいつはセンスがあるから、で済ませると「それあなたの感想ですよね?」にしかならない
ということです。
言葉としては便利なんだけどね
しかし一方で、「才能」や「センス」は人の創作を褒めたり、素直に感動を伝えたりするのにも便利な言葉ではあります。
なので、言葉そのものが悪いというより、“それだけ”で終わらせてしまうことが問題なんだと思います。
一般のリスナーが使う分には何とも思わないです。単に「私この人が好き!」と言ってるだけなので。
でも音楽をやってる人はそれじゃダメだと思うんです。
ある人を「才能がある」と評価したなら、「具体的にどの部分に感動したのか」「何がほかのクリエイターと違うのか」を深掘りすることで、学びや刺激が生まれ、より豊かな議論やクリエイティブな成長につながると思います。
「才能」「センス」といった便利な言葉を、深堀りのない“思考停止ワード”にするか、「どこがどう素晴らしいのか」を分析・言語化する取っかかりにするかで、クリエイターにとっての価値が変わると思います。
才能やセンスを言語化する例
ちなみに僕は澤野弘之さんが好きです。澤野さんは才能とセンス溢れる、すごい音楽を作れる人だと思ってます。
なので、以前こんな記事を書きました。
澤野さんの音楽的特徴を最大限言語化して、実際に採譜して、自分の音楽に落とし込むところまでやって、ということをやりました。
自画自賛ですが、こうして澤野さんの「才能とセンス」を言葉にして、知見にしました。自画自賛ですが(書くのすごい大変だったから自慢してもいいと思う)。
メロディセンスを磨くには、「良い」と感じるメロディの特徴や構造を分析すること、そして実際に手を動かして組み合わせやバリエーションを試してみることが重要
音楽センスとは、自分が「かっこいい」と思う基準を深く掘り下げ、それを共有してくれるリスナー層に刺さるように表現する技術や方法を探ること
才能があるから成功するのではなく、続けるからこそチャンスが生まれる、という事実を理解して行動することで、むしろ「才能」という言葉以上の力を発揮できる
というわけで、「あの人は才能やセンスがあるから」という言い訳は今日限りやめて、自分の推しの音楽をひたすら聴き込んで、どんな特徴があるか、どうやったらそれを再現できるか、ひたすら考えて今日も制作しましょう。