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僧侶の理想と現実
ベトナム縦断したり南米に1年間居住したりして、今はタイのお寺で修業中のひろみです。
今日で修行生活は一旦中休みに入る。
明日の朝のフライトでバンコクに帰り一週間ほどステイする。
とはいっても休みたいからバンコクに帰るわけではなく、ビザの更新に行くのが目的だ。
そんなわけで今日のお昼にお寺を出て今は市内のホステルに泊まっている。
ちなみに僕は海外に行ったときは確実にドミトリーに泊まることをおすすめする。
ドミトリーは安いうえに面白い人と会えるから、ホテルなんかよりも何十倍もお得だと思う。
今回もそんな出会いがあり、今日はホステルのオーナーと何時間にもわたり話していた。
彼は日本人なのだがタイ人と結婚しており、今は3人のお子さんがいる。
若い頃は役者をやりながら世界中を飛び回っていて10年くらい遊んだら、いつの間にかタイにいて子供も生まれていたらしい。
経験則だがタイで自営業をしている日本人って結構こういう人が多い。
実は会うべくして会う人よりも偶然会った人と話す方が面白かったりするので、ぜひ機会があればドミトリーに泊まってみてほしい。
僧侶の理想と現実
僕がお寺に行く前に抱いていたタイの僧侶のイメージはこの2週間でいい意味で崩れた。
おそらく誰もが想像するような僧侶はタイでは出会うことはないだろう。
理想と現実①:真面目
僧侶というとストイックで修業に一心不乱な真面目なイメージがあるが、僕があった僧侶でそんな人はいなかった。
真面目でないというよりは、日本人が思う真面目ではないといった方が良いかもしれない。
彼らは自分の気分を第一優先にしている。
例えば、毎日朝と夜にお祈りと瞑想をするのだが、毎回そこにそろうメンバーが違う。
一応僕は毎日参加しているのだが、日によって集まる人数が4人だったり、5人だったり。
昨日は2週間お寺にいたのに初めて見る僧侶もいた。
原則参加すべきものなのだが、気が向かない日は参加しないという選択もあるらしい。
仏陀は「バカ真面目にルールに則るのではなく、自分で臨機応変に対応せよ」的な話しもしているので、その精神がここで現れているのかもしれない。
理想と現実②:エンタメがない
僕の記憶する限りではタイ僧侶は音楽などのエンターテイメントに触れてはいけないという戒律があった気がするのだが、どうやらそうでもないようだ。
ある僧侶はアニメと音楽が大好きで、タンブンに向かうたびに僕に日本のアニメの素晴らしさを語ってくる。
この前は「今日は日曜日だからSPYFAMILYの日だね」とか言ってた。
戒律はその部派によってどれくらい則るべきか違ったりするので、必ずしも絶対守るべきものではない。
彼はそれで幸せそうだしアニメを見ることくらい、たとえ戒律で気にはNGでも許してあげたくなる。
僧侶の理想と現実③:縛りがすごい
僕はタイのお寺に行く前は日本のお寺のような、厳格な厳しい毎日を創造していた。
朝は日が昇る前にたたき起こされ、寒い中でもはだしで掃除をさせられ、精神的にも肉体的にも堪える毎日のような。
だが、この記事を見てわかるように1日のスケジュールは結構穴ぼこだ。
確かに朝は早いけど途中で仮眠をとったりできるし、一応掃除の時間は書いているもののそれも任意でやるものだ。
タイ仏教には自由を重んじる精神が蔓延しているように感じる。
何に関しても強制したり、嫌なのにやらせるなんてことは絶対なくて、あくまで「こういうのあるけど、やりたい?」くらいのスタンスだ。
僕がタイの仏教で好きなのはこれだ。
宗教信仰も修行も他の事に関してもすべてだが、強制感が入った瞬間に人はそれをやる気を失う。
自発的な動機をもって臨むべきでそうでなければ何かが身に着くことはないし、それを継続することも苦痛になる。
こういった気質を持っているのは、仏教や儒教などの悟り宗教だろう。
今日ドミトリーでインド人から聞いたのだが、インドではヒンドゥー教の強制感が強すぎて劇的に信者が減っているらしい。
何十年も信仰していた彼も「あんな宗教信仰するか!(笑)」と言っていた。
こうして数か月も修行をしたいと思えるのはタイ仏教の自由を重んじる性格のおかげだ。
明日からはお寺での生活ではなくなるわけだが、引き続き瞑想だけは続けていきたい。
がんばる。