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論理的な宗教:仏教

ベトナム縦断したり南米に1年間居住したりして、今はタイのお寺で修業中のひろみです。


今日は新しいお寺に旅立つタム君を見送ってから、マスターに一対一で講義をしてもらった。

大枠は悟りに至るための必要な学びのようなものだったが、心とは何か?心の働きとは?という哲学的な問いかけから始まり、仏陀がどのようにして悟りを開いたのか?という仏教についても学んだ。


論理的な宗教:仏教

僕はこれまで宗教に興味がありながらも、どうしてもそれにのめり込む人の気持ちがわからなかった。

なぜなら宗教の教えはあまりに簡単すぎる。
というのも、「あなたが幸せではないのは愛がないから。周りの人を愛せば幸せになれる!」みたいな感じで、すごく簡単に幸せになれる方法を教えてくれる。

簡単な答えを教えてくれるのはとてもありがたいのだが、そんな簡単に幸せになれないから困っている人がいるんじゃん、って思ってしまう。

簡単だと思い込むことは大事だが、それは複雑な思考を重ねた上に簡単な考えが成り立つわけで合って、シンプルな教えだけで完結してしまうのはあまり信じることができない。


また、多くの宗教はすごい力をもった指導者を磁石にして、この人について行けば人生うまくいくよ的なことを言う。

しかもその人をすごくしている神話のようなストーリーもそれが本当かどうかはどうでもいいのだが、論理的に考えていくと矛盾が生まれることが多い。

高い建物を建てたら多くの人の目を引くが、その基礎が弱いと高い建物ほど崩壊するのが早いように、指導者がすごければすごいほどそれを立証する神話や教えは完璧であることを求めてしまう。

僕が学んだのはあくまで表面的な部分なので間違っているかもしれないが、多くの宗教が上記の二つに当てはまるようなものだった。


仏教は論理的で現実的

一歩仏教はかなり論理的だ。しかも現実的でもある。

例えば仏教では何かを信じれば幸せになれるとは言わない。

輪廻転生からの解脱を果たすためには、修行は必須だ。
修業とは戒律を守ること、瞑想をたくさん行うことを指す。

そしてなぜ瞑想をするのかも心と体の機能や在り方を細かく説明したうえで、こういう風にやったら煩悩から逃れられるよ、と論理的に説明してくれる。

ただただ「何かをすれば~」ではなく、「~だから、~をしたら幸せになれる」というように。


また、仏陀が神ではないというところも素晴らしい。

厳密にいうと、多くの人が思い浮かべている仏陀は仏教の創始者であるゴータマシッダールタのことで、仏教でいう仏陀は「悟りを開いた者」を意味する。

ゴータマシッダールタは他の人間と変わりない同じ存在で瞑想をすることによって仏陀となった。
彼が経験から生み出した方法や考えが今継承されている。

彼の教えに沿った修行を積み重ねれば、誰でも仏陀になることができる。


一神教など誰か一人を絶対的な存在とすると、その村税の絶対性を守るために教えが変わったりするのだが、仏教の場合はそんなことはない。

ちなみに仏教では苦行は全く進めていない。
中道という教えがあるように、弱すぎず強すぎずやることが大事だと説いている。

マスターは今日、「苦しみはさらなる苦しみを生み、too much happinessは人を怠惰にする」と繰り返していた。

この点が特に現実的だ。
瞑想をしなければ悟りは開けないが、自分を痛めつけるような修業は誰にでもできるわけではない。

あくまで努力を必要とするが誰にでもできることを求める。
これが仏教。


まるで仏教の信者のように書いてしまったが、それほどまでに僕は仏教の教えが素晴らしいなと感じた。

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