日本史論述チャレンジ課題・戦前
今回は、戦前(大正〜昭和前期)のチャレンジ課題をお送りします。
この「チャレンジ課題」は、私が出講している高校の課外講座で、毎回の授業の終わりに生徒に取り組ませているものです。
学んだ内容の理解度を測るのに、文章を書かせることほど良いものはありません。自分では分かったつもりでも、いざ文章となると書けないもの。それは理解があやふやだからです。
授業では、その日の内容に即した課題を与えていますが、教科書・用語集・図説、なんでも参照して良いこととしています。ただ読むよりも、書くということを目的に読んだ方が、より能動的に文章と向き合うことができて、理解がより深まることを狙っています。
今回用意した10問の中には、かなり難しいものや、答えが一意に定まらないものがありますが、それでも構わないと思っています。自ら調べ、考え、書くことが大切ですので。
皆さんも、80〜100字で答案を作ってみてください。
〈問題〉
1.
石井・ランシング協定が結ばれた日米双方の思惑について説明しなさい。
2.
第一次世界大戦後に日本が置かれた国際的立場について説明しなさい。
3.
1910~20年代に労働運動が高揚した社会的・経済的背景を説明しなさい。
4.
1920年代に日本経済が慢性的不況から抜け出せなかったのはなぜか。その理由を考えなさい。
5.
新興財閥の特徴について、具体的な財閥名を挙げながら説明しなさい。
6.
1920年代後半、協調外交が「軟弱外交」と批判されたのはなぜか。理由を説明しなさい。
7.五・一五事件と二・二六事件がそれぞれ政局に与えた影響の違いを説明しなさい。
8.
国家総動員法の内容と、その条文に「戦時ニ際シ」という表現が用いられてい理由を説明しなさい。
9.
1940年代初頭の日本の南方進出が日米関係に与えた影響について説明しなさい。
10.
カイロ宣言とヤルタ密約の内容的な矛盾について説明しなさい。
〈解答例〉
1.
中国における膨張政策を進める日本としても、その動きを警戒しつつ欧州戦への参戦を決定したアメリカとしても、中国権益に関して妥協を図り、両国間の緊張を緩和して極東の安定を確保する必要があった。
2.
国際連盟の常任理事国として国際的地位は上昇したものの、大戦中の露骨な大陸進出に対して批判が高まり、日本の動きを警戒するアメリカが国際政治の主導権を握ったことから、孤立しかねない状況に置かれた。
3.
大戦景気に伴って都市労働者が増加したが、賃金上昇を上回るインフレで生活は厳しく、労働運動は高揚した。その後、慢性的不況下に時短や解雇などが相次ぐと、労資協調主義から階級闘争主義に転換した。
4.
相次ぐ恐慌を紙幣の増発でしのいだため、日本だけが金解禁できず、為替相場が不安定であったことから輸出が低迷するとともに、大戦景気で膨張した企業の合理化も進まず、国際競争力が回復されなかったから。
5.
日産が満州で重化学工業を独占し、日窒が朝鮮で水力発電所を建設したように、自動車・化学などの高度な技術力を基盤として、高橋蔵相の積極財政と満州事変以降の軍拡路線の下、軍部と結びつく形で大陸に進出した。
6.
協調外交は対中内政不干渉の方針を堅持していたため、国民革命軍による北伐の動きに対して無策であり、軍閥を通じて維持してきた満州権益が脅かされかねなかったから。
7.
五・一五事件後は、元老の西園寺公望が海軍穏健派の斎藤実を首相に指名し、挙国一致内閣の発足を指示して軍部の発言力の抑制を図った。一方、二・二六事件後には、陸軍統制派が主導権を握って広田弘毅内閣の組閣に介入した。
8.
国家総動員法は、日中戦争に際して人的・物的資源の運用を議会の承認をへずに勅令で行えるものとした法令であるが、制定の時点ではアメリカの中立法の適用を恐れて中国に対して宣戦布告していなかった。
9.
日中戦争が長期化する中で、日本は戦略資源の確保と援蒋ルートの遮断を目的に仏印に進駐したため、アメリカは石油禁輸措置などの経済断交の姿勢で臨み、最終的にハル・ノートの提示で日米交渉は決裂した。
10.
カイロ宣言では、日本からの領土剥奪の方針を示すとともに、連合国の植民地主義を否定したが、ヤルタ密約では、アメリカがソ連に対日参戦を求める見返りに、南樺太・千島列島の引き渡しを認めた。