第6回 連想的独白
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久しぶりに連想的な独白をしようと思うと、前回は何を話していたかと確認をするところから話が始まる。このシリーズは、第1回から第x回の話が全て繋がっている。第1回の頃からすると、今はあまりに話が飛躍しているので、自分でもその予測の難解さにあまりに驚いて、「く」と書こうとしたけど「ぬ」と書いてしまった。
けれど、第2回、第3回と読み続けるごとに、その連想の秩序のようなものがなんとなくわかる。なんなら、傾向と対策を練り、数少ない貴重な読者のあなたで勝手に連想を進めておいて、後から答え合わせをする。そんな楽しみ方もある。もちろん、継続的に読まなくても、とある回だけ読めばなんとなく面白い、そんな『でんぢゃらすじーさん』的な物語(?)を作っていきたい。
さて、前置きが長くなったが、第5回の『連想的独白』のクライマックスでは、焼肉パーティーの話を予告している。が、焼肉パーティーの話は一度書いたことがあるので、こちらを読んでいただいた方が話が早い。ということで焼肉パーティーの話は今回は割愛させていただく。
「割愛」ってなんだか響きが気持ち良くて、ついつい使ってしまう。なんだかカラッとしていて、よく晴れた夏みたいな音が聞こえてくる。溌剌としている。そういえば、「溌剌」も響きがカラっとしていて、本当に「溌剌!」とした響きだ。ちなみに、いちばんカラッとした名前の人物ランキング1位は、今話題の映画『アネット』の監督であるレオス・カラックスだ。「カラ」という文字を含み、さらに跳ねるように発音する。まさに「カラッ」とさせる要素をこれでもかと詰め込んだ「カラカラカラックス」だ。
ちなみに、僕はまだ『アネット』を観ていない。この2ヶ月ほど、なかなか映画を観られなかった。京都シネマに行こう行こうと思い続けていたけれど、とうとう京都シネマに行けずに上映が終わってしまったので、映画は観に行ける時に行ってしまうのが吉であることを学んだ。好きな映画を宣伝すればするほど、その他の好きな映画に触れる時間が短くなる。どちらかに偏ってしまうと良くない。栄養も過度に摂取すれば時として毒となる(かもしれない)。まさに「過ぎたるは尚及ばざるが如し」だ。
「過ぎたるは尚及ばざるが如し」というのは字の如く、「過度な物事はかえって不足であることと同じである」という意味だ。僕は高校1年生の古典の時間でこの言葉を学び、学問においてのスローガンに決めた。「勉強のし過ぎは、かえって勉強をしていないことと同じである。それなら勉強なんてしないほうがマシだ」と言いながらギターばかり弾いていた。今思うと、ただのアホだ。そしてアホさなのか、諦めていたのか、テスト直前でもあまり焦らなかった。例えば数学なら、「公式なんて覚えなくても、過去の人間が導き出したものを、今を生きる僕が導き出せないわけがない」と豪語し、赤点をとった。倫理ならば、「哲学なんて勉強しなくても、過去の人間が導き出した思考なんて、今を生きる僕が悟りさえすれば自ずと湧いてくる」と豪語し、赤点をとった。そんな高校生の頃のエピソードがある。
記憶を踏石にして歩いていけば、いろんな記憶に少しずつ近づいていける。連想的独白という川の岸に立っているときにはよく見えなかった石が、記憶伝いに渡ってみると意外と笑える石があったりする。これだから連想的な独白はやめられない(まだ6回目)。
つづく。