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理解という名の愛がほしい
分かるっていうのは、愛するのとは違う
☝図書館で借りたDVD(←令和5年のこの時代に‥)の中にそういうセリフがあったけど。
続くセリフはこうだ。
分かるっていうのは、愛するのとは違う
人は変わる。今日パイナップルが好きでも、明日は別のものが好きになる
バレンタインデーで、やれ「アムール・デュ・ショコラ」だなんだとか言って愛に沸く?世の中で一人勝手に「愛」について考える。
そもそもタイトルの”理解という名の愛がほしい”は
コロナ前2019年、私の中で流行っていた。
別に誰も言ってなくて自分の中だけの流行語だけど。
評価はこわくて、評価がほしい。
評価がこわい but ほしいのも評価なんである。
昔っから「評価」におびえまくって大きくなって、
会社の評価(考課・査定)がイヤでアルバイトになったようなもんだ。
ボーナスも昇給もないから、
目標設定とか面談とか何らかの”宣誓”めいたものもしなくて助かる。
最初はそう思ってせいせいしてたけどそれで10年も経つと、
今度は今度で「私ってなんなんだろう?」って思ったりする。
勝手だ。
いやしかし会社での自分の評価なんざ別に最終的にはどうでも良いんである。
何の評価?っていうとそれは自分が書いたもの、作ったZINEやらについての評価なんである。オーマーイッ✞!
書く前before、書いてますing、書いたったdone
このnoteの記事も書く前は気負って(前)
書き始めちゃえば没頭したりして”済んで(過ぎて・通過して)”(中)
書いて少し経ってからが一番情緒不安定(後)
ドヒーン!
書いた直後は吐き出すわけだから相当スッキリもする。
スッキリもするのだが…。
だがね!!
noteに記事を挙げなくても私が何も書かない日は一日もないのである。
ここで私の「日々の書き物」を整理してみよう。
《日記》
人に見せない日記なんてモヤモヤ⇔スッキリを行ったり来たり、
どっちかに振れまくったり…
自分の中でどうにでも配分できてどうにでも着地できる。
…いや着地さえも目指していない。
延々とただただ続く、惰眠をむさぼるかのごとき「書く」。
《ときどき手紙》
これは相手あってのことだけど出す相手によって日記に近いこともあるし。ただキホン評価とかはない性格のもの。年賀状も手紙。趣味の「書く」
《note》
はい、今書いている”これら”ね…。
ここからだよね。他人目線が入ってくるのは…。
不特定多数の目を意識する…
それが楽しくもあり…っていうのがネットで書く醍醐味なわけで。
評価意識の「書く」
《最大のアウトプット・ZINE》
はいはい、ここからが本丸だ。
”ZINE イズ 我《われ》!”って私はよく言いますけれども本当に自分でしかない。
それがもう本当に惚れ惚れするほど徹頭徹尾自分。
どこを切っても私!私!私!!なので隠れようもない。
出されたものは、我が子のごとしの「書く」
それがZINEなんです!
もうこうなってくると(☝下に行けば行くほど)殺気立っちゃてて、
本気度・自分濃度がスゴイことになっててん、
”周りはチャラチャラ言って(簡単に評価して)くんな!”みたいな…
なまはげ?👹🔪(なまはげはわるくない)
みたいな?!
もう愛憎半ば?!
「私に近づかないで!でも近づいて」
ってアンビバレントな情緒不安定になっている。
こういう自分濃度MAXエリア(ZINE)ほど
友達だから家族だから立ち入れるってものでもない気もする…
純水はデンジャラス。
もうこの期に及んで、
ZINE星人(ZINEに化身している)になっちゃってるアタシは
「お友達に会って何を話しても…何をしても白けてしまうわッ!
理解という名の愛がほしいーーーーーーーーーー!」
になってるんだけれども…。
いや笑うしかないべな。失笑買うしかないべな。
それがZINE。
それがZINE is 我なんである!
…というようなことをボンヤリ考えていましたところ、
フト思い出した本がありまして取り出してめくってみました。
正確な理解のパンチ力
そしたらこんな風に書いてありました。
「正確な理解のパンチが繰り出されたら、たった一発で相手を信頼する」
「理解の深さには、心から満たされる想いがした」
つまり一発で通じあうために必要なのが「理解力」と言っているわけです。ふむふむ。その爽快な一撃、求ム!
そんで私としてはその理解こそが愛なんじゃないのーーー??
って思うのですが、
冒頭の主(映画のセリフ)は「理解(分かる)は愛するのとは違う」というわけだ。
「理解のない愛もあるし、愛のない理解もある」ってこと?
何か言ってそうでなんにも言ってないってやつ?
ってか言ってる私がそもそもチンプンカンプン。
アリャー。
むんつかしいーーーーーんだけれども。
だから生きるしかないし、今日も明日も書くしかない。
だからだから心あるあなたの目を少しでも意識してしまうnoteは若干苦手だったりする。
AMANOJAKU!
とにかく「理解」とか「分かる」とか「ファン(fan)」とかその周辺は不確かだ。明日には変わる。
私は20代~30代にかけて、
たやすく「ファンです」のセリフをほいほい口にしてました。
誰かが言ってたけど「ファン」なんて言う人に限って、
手の平を返すように「最近そうでも無くなった…」なんて言えてれば(覚えてる分)まだいい方で、言ったそばから忘れていたり…(あくまで私の場合)。
諸行無常。それが常なんかもしれませんがね。
友情の上にある「信頼」もあれば
たった一回通りすがりのZINE読者の理解に支えられた「信頼」もあるのでしょう。
二つは重なることもあるけど、重ならないことのほうが多くて
だからと言ってさみしいことなんかじゃない。
そう思いたい春です。
再び、恥ずかしさの先頭に立つ
こんなことを書きましたからに、
次回はこ~んなテーマ☝で書きたいですわね。
ほいでっは~👋
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