page.5 論拠と論述

対立する主張があれば喧嘩は成立するが,それだけでは,[論理体系の共同化運動]であるはずの喧嘩は鬱滞して深まらない。喧嘩や論争,議論を深めるためには,“論拠”と“論述”が必要となる。

命題Pに割り当てる真理値の相違によって生起する───すなわち,トピックは“Pか否か”である───次のような喧嘩を考える。

A「Pは真だ」
B「Pは偽だ」(¬Pだ)

このような喧嘩が,ここで止まってしまってはナンセンスである。これが喧嘩として有意味に進行するために,次のような文言が一例として考えられる。
A「あなたはどうして, P が偽だと思うのか?」
このように,Bが ¬P を主張する論拠を問い質し,Aはその論拠の真偽を検討する。

互いにこのような作業を応酬することによって,(より本質的には“論述し合う”ことによって)ときに共通認識となる命題を発見し,そのような諸命題から正しい推論規則によって,自分の主張を擁護正当化し,対立する主張の不当を論証するのが,喧嘩の進行モデルである。(推論規則の正しさも検討され得る)

A,B間で共通認識となっている一群の命題を,A,Bの“共有領域”という。

共有領域に抵触すれば,互いの齟齬が具体的にわかるようになる。標準的に,論述は互いの齟齬の所在を究明できる。

但し,何らかの理由によって共通認識となる命題に到達しないかもしれない。そのような場合の喧嘩は,終了するしかない。このような喧嘩の終了事由については後に詳述する。

一般に,アバターAの主張 P の論拠として P’ が示されたとき,アバターAを構成することになる論理体系は {P,P’} だけではない。穏当な解釈としては, {P,P’,P’→P} が得られているはずである。

主張に対して,その論拠を述べることは論述である。上述の例では,Aは「 P’ であり, P’ ならば P なので, P である。」と論述していることになる。たとえ,答え方が「 P でしょう,理由は P’ だからです」などであったとしても,我々が捉えるべき論理の実態としては同様であろう。

但し,“暗黙の前提”が置かれている場合は往々にして存在するため,上記の換言は一般の場面には言えない。これについては次ページで詳述する。

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