page.15 対立信念

我々は皆,信念を持っているはずだ。

人の本質を,“思考の活動ないし,系”(つまり,論理体系,アバター)に在らしめんとする本書では,むしろ,そう言うべきだろう。

信念は,次のように,専らプラグマティックに定義される。すなわち,それが内的に,形而下に作用するような主体たるアバターの諸言動である。つまり,観測ないし知覚可能であるような言動を伴わないものは信念としてナンセンスであり───むしろ,そんなものは信念として認められなくてよろしい───伴うものが,信念として有意味であり,それら観測ないし知覚可能な諸言動に依って,信念はその内容を定められる。

よって信念は,端的な事実を認定するような文章で表すのが適切だろう。人によって異なるだろうが,たとえば,『寝る前は絶対に歯磨きをする』という信念は,この信念が生き続けている限り───(これはのちに述べるが)そしてなんらかの“邪魔”が入らなければ───その主体たる“アバター”に毎朝歯を磨かせるだろうし,『うんこは絶対に寝具にする』という信念は───別の場所で体調的限界を迎えるなどして,その信念に邪魔が入らなければ───その主体たる“アバター”に,そのようにさせるだろう。そして,このアバターに対し「寝具にうんこをしてはいけないよ」と“主張”するなどして,「こいつにこのまま『寝具にうんこをしてはいけない』という信念を持たれていたら,今後『うんこは絶対に寝具にする』という信念にとってクソ邪魔になるだろうな。クソだけに。」などと思われたら,きっと喧嘩になるだろう。このような“信念”に対する考え方は,本書がかねて指摘してきた『共同化原理』および『アバター理論』とひじょうに相性が良い。

また重要な事として,有意味な信念は,別のなんらかの信念と対立し得る。言い換えると,どんな信念とも絶対に対立しないような有意味な信念は,あり得ない。というのも,信念がなんらかの形而下的な言動を伴うということは,それら諸言動のいずれかでも“否定”するような信念は,“同じ時空間”に両立できないからだ。

誤解のないように言っておくが,ここで“両立出来ない”というのは,『M君は,雑誌Bの上で,時刻Cのとき脱糞をするべきだ』というM君の信念と,『M君は,雑誌Bの上で,時刻Cのとき脱糞をするべきではない』というAくんの信念があったとして,このいずれかの信念が“形而下において実現不能である”というような関係を指す。このことは,「観測ないし知覚可能であるような言動を伴わないものは信念としてナンセンス」だという本項の定義を思い出していただければ,見易いと思う。たとえば,『M君は,雑誌Bの上で,時刻Cのとき脱糞をするべきだ』に対して,実際に(形而下において)M君が雑誌Bの上で時刻Cのとき脱糞をしなかったら,“その意味において”,当該信念はナンセンスなものとなる。実際にそのようにしないのに,『M君は,雑誌Bの上で,時刻Cのとき脱糞をするべきだ』というのは,少なくとも字義通りの意義は失ったのだと考えられる。

このような信念間の対立について,特に,先ほど述べた“同じ時空間”を軸として『共同化原理』と有機的に絡めると,次のように話すことが出来る。すなわち,その“同じ時空間”だと認識される領域が,まさに『共同化原理』に説明される『共同体意識』なのだ。

“その当事者たる信念の形而下的な作用域”───だと,認識されるもの───に,“それに抱く共同体意識の領域”は,全面的に依存している。

『M君は,雑誌Bの上で,時刻Cのとき脱糞をするべきだ』のたとえ話に戻って話すならば,その雑誌Bおよび,時刻Cという時空間(領域)が,まさに,M君とA君が認識する共同体であり,この共同体において,『脱糞をするべきか否か』というトピックが生じ得る。

また,本書では,このような関係にある互いの信念を,対立信念と呼ぼう。

細かなことを言うと,その雑誌を空間的に指定することによって,含意される命題も,信念の対立におおいに関わる。というのも,たとえば,その雑誌BがA君の部屋の中心部にあることが暗黙の了解となっており,A君が,『自分の部屋で(雑誌Bをひくとしても)脱糞をされるのは許せん』という信念を持っているのだと仮定しても,同様に喧嘩が生じるであろうから。(そしておそらく,本例のようなときは,こちらのような考え方の方がより自然だろう)

ここまでは,信念における邪魔の例として,その形而下的な作用域を重ねる対立信念の話であったが,次に述べるのは,“このような対立信念はなにも,他人によって主張される必要はない”ということである。というのも,自己の体調の変化や,それに伴う感情の変化,また経験によって,信念の体系は遷移することがあるのだから。

『うんこは絶対に寝具にするべきだ』というかねての信念に対して,同人の体調の変化によって───寝具が近くにないが───『今すぐ,この場でうんこをするべきだ』という信念が即興的に───或いは,それは『単なる嗜好的な信念よりも,体調的緊急性に従った信念の方が優先されるべきだ』というかねての“信念”による優先順位を考えることも出来るだろうが,ひとまず───作成され,対立する。

このようなとき,いくらかは思考があるはずだが,このときに行われる思考は,まさに,『うんこは絶対に寝具にするべきだ』と主張するアバターと,───寝具が近くにないが───『今すぐ,この場でうんこをするべきだと主張するアバターが対立する実態そのものであると考えられる。

思考と喧嘩は,『アバター間の対立が同人の中で行われるか,他人同士で行われるか』という違いはあるが,少し抽象度を高めてみれば,その本質的な構造は同じである。

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