有意味
任意の体系内において、ある概念(≒意味≒性質)を“有意味”に捉えるためには、その属する体系内の別の概念に照らしたとき、その真偽が一様に定まってはならない。
つまり、ある概念a∈Xが、(その概念が属する命題の集合)Xの中で“有意味”であるためには、Xに対して、aは、「任意のx∈Xに対して真」若しくは「任意のx∈Xに対して偽」であってはならない。
例えば、「“食べたら死んでしまうものである”という性質を理解する」ことは、その体系φに対して、“食べたら死ぬもの”という性質を満たす部分集合φ'∈φの要素を網羅し、列挙出来るということである。すなわち、¬φ'∈φを網羅し、列挙できる。しかし、食べたら死ぬものが存在しない場合を考えると、食べたら死ぬものφ'と、食べたら死ぬものではないもの¬φ'を峻別することに意味がないことは明らかであろう。このようにして、“食べたら死んでしまうものである”という性質は、体系φに対して、そうでないものを峻別する限りにおいて有意味である。ということができる。
本書は今、このような概念に対してメタ的な視点に立っているため語ることができるが、(正確には、語るために必然的にメタ視点に立たざるを得ないのだが)何も分けないものは、“それの存する体系内においては”何も語ることができないので、示すしかない。
しかし、ここで次のような違和感を持つ人がいるかもしれない。すなわち、『全体は明らかに有意味じゃないか、だって、集合を考えるときも全体というのは欠かせない概念であるし、「全人類に幸福を」というときも、全ての人類について語っているし、このような意思が無意味なものとは思えない。』『その系に属する要素を全て列挙することで“全”を語れるじゃないか!その系だけで“全”を語れたではないか!』といったものである。
本書がここに掲げた趣旨は、もちろんここに例示されたような内容について無意味だと一蹴するものではない。その趣旨というのは、このように一見“全”について語っており、さも“全”が有意味であるような場面について、実は我々は必然的にその“全”というのを鳥瞰視し、メタ視点に立ってしまうというものである。
このような“全”についての捉え方を、“全”の膨張性と呼ぼう。
ここでしつこく主張しておきたいことは、“全”は、その存する(それそのものである)体系の中からは、語れない無意味なものであるが、語ろうとすると忽ちその主体はメタ認知を───得てして無自覚のうちに───行い、1つ上の視点から語ってしまうということである。
“全”というゲシュタルトを真の意味で得ることは、人知においてあり得ない。
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