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夏休みの読書感想文「無自覚を自覚して考えたこと」

yu-です。

最近は子ども達の夏休みの読書感想文を手伝っています。
自由に感じたことを書けば良いと言いながら、なかなかそれが難しく、毎年のことながら大変です。

ひさしぶりのnoteですが、私も直近で読んだ本について読書感想文を書いてみたいと思います。

西加奈子さんの「サラバ!」と、今年芥川賞を受賞した市川沙央さんの「ハンチバック」の2冊を最近続けて読みました。その2冊を読んで考えたことを今日は書きます。

(少しネタバレ要素も含みますので、これから読もうかなと考えている人は注意です。できるだけ物語の本筋には触れないようにしています。)

「サラバ!」

すべてが変わり続ける中で、何を信じて生きるのか


西加奈子さんの本が好きでたまに読むのですが、「サラバ!」は古本屋で買いました。
上下巻で読み応えがありそうだったので選んだのですが、帯もなく、あらすじやどういうテーマの本なのかわからないまま読み始めました。
まあ読んでいったらわかるだろうと。

上下巻合わせて800ページ近くあり、長いですが、読みやすくて面白かったです。

「僕はこの世界に、左足から登場した。」の一文からはじまり、一貫して主人公視点で、家族や社会との関わりが描かれていきます。

幼少期は破天荒な家族の中で、自分を押し殺しながらもうまくやる術を学び、それを生かして学校社会でもそこそこうまくやっていきます。
そんな主人公の成長の中での色んな出会いが丁寧に描かれていきます。

気付けば上巻を読み終えようとしているのに、これって一体何の話なんだろう?と疑問が浮かんだままでした。
時に浮世離れしたような衝撃的な出来事があったり、人との関わりの中での美しい瞬間があったりはするのですが、私達の続いていく暮らしに特に起承転結がないように、ただそうした出会いや出来事が続いていく。
だから、これから何が起きるのか、物語はどう帰結するのか予想ができませんでした。
面白いけど、先がわからなくて不安。
それって人生そのものみたいだなと思いながら、下巻に進みました。

容姿が良かったことも手伝ってそこそこうまくやっていたはずの主人公は、30歳を超え容姿に変化が訪れたことをきっかけに、自分の心持ちや周囲の環境もどんどん変わっていきます。
かつての恋人と比較し付き合う恋人の「ランク」が下がったことを恥じたり、拠り所にしていた友人達の結婚を喜べなかったり、そういった心の醜さが後半では描かれていきます。
そんな自分が嫌いで、何も無くて孤独を感じ、惨めな気持ちになったりします。

この物語では、家族、友人などとの人間関係や容姿の変化だけでなく、地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災、911、そして東日本大震災。
そのような社会的な出来事が、主人公や周りの人々にあらゆる形で影響を与えていきます。
その中で、何もかもが次々と変わっていく。

主人公は自信や色んなものを失っていくのですが、子供時代に大切な輝きをくれたある出来事があって、それがこの物語の鍵になります。

テーマとしては普遍的なことを書いているのに本当に面白くて、退屈しないで読めました。
それは、主人公の姉をはじめとするエキセントリックで魅力的な登場人物や、知らない海外生活の描写など、ここには書ききれないような、読んでいてワクワクする部分が多くあったからです。

主人公が自分の信じるものを見つけ、弱さや孤独を乗り越えたこと、「連綿と続いてきた僕の時間の頂点に、今の僕がいることを、心強く思った。」という一文に私も勇気づけられ、「読んで良かった!!!」という気持ちになりました。

そうして読書熱に火がついた私は翌日すぐに次読もうと思って買っておいた「ハンチバック」に手をつけたのでした。

「ハンチバック」

当たり前を疑わないでいた自分に気付く

「サラバ!」は何日もかけて読んだのですが「ハンチバック」は短い物語で、2時間程度で読めました。

そのわずか2時間ですが、「サラバ!」で受けた感動と余韻を一気に塗り替えるような読書体験でした。

先に書いてしまいますが、「ハンチバック」を読み終わった後に振り返ると、「サラバ!」は色んなものを当たり前に持っている者の物語だったのだと痛感せざるを得ませんでした。
そしてきっと世にある殆どの小説はそうで、私達もその当たり前を疑わずにいるということも。
どちらも面白く読めたが故に、コントラストの強い二つの物語が衝突し合い、自分の持っている常識や価値観に大きく揺さぶりをかけられたような感じがしました。

「ハンチバック」は、背骨が極度に湾曲する難病を患う身体障害者の女性が主人公です。
人工呼吸器と電動車椅子が必需品で、両親が遺したグループホームの一室で暮らしています。
有名大学の通信制課程で学び課題をこなしながら、コタツ記事と呼ばれるネット情報のみで構成されるハプニングバー潜入などのポルノ記事を書くバイトをしています 。(いきなり過激で俗っぽい性描写で始まるので、何も知らずに読み始めると面食らいます。)

グループホームの利用者や職員達の前では「大人しい女性障害者」でいながら、語りでは「せむし(ハンチバック)の怪物」と自嘲する主人公が、自身のTwitterアカウントで「ある投稿」をします。

それは障害のある身体で生きる主人公の渇望のようなもので、同時に、炎上しそうな、社会性のない呟き。そう自覚しながら一旦はEvernoteに下書き保存し、冷却期間を置いていたものでした。

「炎上案件」なTwitter投稿から、物語は一切の綺麗ごとを纏わずに展開していきます。障害者を扱うコンテンツにありがちな感動要素などは一切ありません。

主人公のパンクなまでの渇望、皮肉、散りばめられたブラックユーモア、そして衝撃的な物語後半の展開が、読者に次々と揺さぶりをかけてきます。
私は揺さぶられるがままに読む手を止められず、なにか疾走感のようなものを感じていました。受け入れられないと感じる人はたくさんいるだろうと思ったし、だからこそこの本が世に出た意味があるとも思いました。

芥川賞の選考委員からのコメントに「爽快極まる露悪趣味」とあるように、読んでいてウッとなるような場面がかなりあるので、はっきり言って学校の生徒や身近な人に気軽におすすめできるような内容ではないのですが・・・この読後の感覚はなんて言えばいいかわからないので、気になる方は読んでみてください。

読書文化の「特権性」について

この作品の中で描かれる重要なテーマのひとつとして、読書文化の「特権性」があります。

身体障害者が重い本を持ち上げて姿勢を保って読書することの難儀さ。
目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること。
そんな「5つの健常性」が読書をする上で当たり前に求められること、そして特権を無自覚に享受して「紙の本ってやっぱり良いな」なんて言っている健常者たちに、主人公は憎しみを感じています。

これは、著者である市川さんの実体験であり、この小説を書こうと思った理由のひとつだそうです。
今でこそ電子書籍やオーディオブックなどが普及してきましたが、読書文化がまだまだ障害者にひらかれていない現状、これまでに障害者による文学作品が少なかった理由を考えてみてほしいと投げかけています。

「話せない」孤独の中にいる人々

このことを考えていて、私は以前に読んで心に残っている本を思い出しました。
東田直樹さんの「自閉症の僕が跳びはねる理由」という本です。

重度自閉症で人との会話ができない東田さんが、筆談という手段を得て、やがてパソコンや文字盤を使って自分の内面を表現することができるようになり、中学生の時に書いた本です。

本の冒頭で、東田さんはこう書いています。

”話せないということは、自分の気持ちを伝えられないことなのです。孤独で夢も希望もなく、ただ与えられた毎日を人形のようにすごすことなのです。”

”自分の力で人とコミュニケーションをするためにと、お母さんが文字盤を考えてくれました。ひとりで文字盤を指せるようになるまで、何度も挫折を繰り返しました。それでも続けて来られたのは、人として生きていくためには、自分の意思を人に伝えることが何より大切だと思ったからです。”

この本で東田さんは、「会話ができない理由」「ひとりごとを言う理由」「手をひらひらさせる理由」などを読者に向けて説明しながら、内面の気持ちを語りかけるような優しい言葉で綴っています。

大人になった東田さんは、作家としてエッセイや小説、詩集、絵本を執筆しています。
お母さんの協力と大変な訓練があって、「文章表現」という手段を手に入れ、それが作家としての道を切り拓きました。

東田さんの努力と、真摯な文章に心打たれた一方で、私はこの本を読んだことで、内面を外に出すすべがなく今も孤独の中ですごしている人々がたくさんいることが自分の中で浮き彫りになったように思います。

本を「書く」「読む」どちらにしても、機会がひらかれていないことで、その入り口にも立てない人たちが多くいます。そしてそれは障害に限ったことではないかもしれません。貧困や言葉の壁など・・・それは仕方のないことなのでしょうか?

無自覚を自覚し、考える

「ハンチバック」の問題提起から思うこと。必要なのは私たちが「紙の本が良い」と感じることに後ろめたさを感じたりすることではなく、ただ、今自分が持っているものに無自覚のままではいないということです。
無自覚を自覚し、自分の外側のことに思いを巡らせ考えることが必要だと思います。

このような問題について、いくら一個人が関心を持っても大きな社会を変えることは難しいです。だから、無関心になりがちです。
でも教師は学校という小さな社会なら変えられる可能性を持っています。
教職員の意識や、生徒との関わり方、「合理的配慮」の仕組みづくりなど。
わかっているつもりでもわかっていないこともあるし、アップデートも必要だし、絶えず関心を持って考えていくことで、その時その時の自分の半径の中で、できることが見えてくるのだと思います。
(当然、これは読書文化のことに限りません。)

さいごに

西加奈子さんの「サラバ!」の中で、とても好きな一節を紹介します。

共に笑い、共に怒り、共に涙を流し、ときに死に、そしてまた生き続けた。小説の素晴らしさは、ここにあった。何かにとらわれていた自身の輪郭を、一度徹底的に解体すること、ぶち壊すこと。僕はそのときただ読む人になり、僕は僕でなくなった。そして読み終わる頃には、僕は僕をいちから作った。僕が何を美しいと思い、何に涙を流し、何を忌み、何を尊いと思うのかを、いちから考え直すことが出来た。

私は今回挙げた3つの作品すべてで、この体験をしたように思います。
そして、そのたびに読書がもっと好きになりました。

本を書ける人はすごいなと常々思っています。
自分には絶対書けないと思うからです。
物語を支えているのが、綿密な取材であっても、その人自身の経験であっても、そこにはいつも知らない世界が広がっているし、ページをめくるだけで新しい体験をさせてくれる。
それがすべて等しく「その人にしか書けない」ものだということが当たり前だけど本当にすごいし尊いことだと思います。
「ハンチバック」は市川沙央さんにしか絶対書けない物語だし、「サラバ!」だって「自閉症の僕が跳びはねる理由」だってもちろんそうです。
だからいろんな人が書いた本が生まれていくことに意味があると思います。

読書の体験が可能な限り多くの人々にひらかれていくことは、垣根なくさまざまな人々によって書かれた本を読める未来にもつながっています。

そして私たちは、そんな本を読むたびにまた、自分を解体し、作りなおすことができるのだと思います。


👩‍💻💬

最後、なんかすごく本好きな人みたいな感じで書いてしまいましたが、気が向いたら読むぐらいで、普段はそんな胸を張って言えるほど沢山本を読んでいません・・・まだまだ世の中には知らないこと出会えていないことが沢山あるはず。
皆さんが、「読んでよかった!!!」って思った本も良かったら教えてください。コメントでも、投稿でも。

お待ちしています😊

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