想像していなかった未来は、いまを積み重ねた結果
20年前に「想像していなかった未来」を生きてはいるが、
「想像した未来の途中」を、いま歩いているのかもしれない。
私は現在43歳、13年前に地方移住をして、妻と娘と犬二匹と暮らしている。
現在は週二日、地方の某市役所へ、とある事業のアドバイザーとして勤め、
残りの時間はまだ、飯のタネになっていない。
この歳ならば、普通はサラリーマンならば中間管理職くらいか…。
とはいえ、つい数か月前までは自ら事業を行っていた、一応、元社長。
9年前にシカ肉をペットフードにする地方起業をしてコロナ禍も超えて、黒字化してきたところで、やっとこれからというタイミングでいろいろなトラブル発生。売り先はあるにもかかわらず、仕入れができなくなり、地域との付き合いもうまくいかず、結果、破綻。事業は譲渡し、会社は現在、倒産処理中。
さてさて、どうしたものかと思っている現在。
noteの企画で「想像していなかった未来」という文字が目に入り、「素敵なテーマだなぁ…」と思い、誰にお読みいただけるものとも知れないが、社会人になってからの20年を振り返えってみることにする。
世の中的に見ればきっといまは人生の一番どん底なのかもしれない。
しかし、不思議と悲壮感はない。
どん底を何度も繰り返し、何度も乗り越えたからなのか、
子供の笑顔に救われているからなのか…
こんな状況になるとは「想像していなかった未来」ではあるが、
大きな流れで見ると「想像した未来」の中の1ページを歩んでいる最中なのかもしれない。
育ち
私は1981年生まれ、世代でいうといわゆる松坂・広末世代。
生まれは北海道、育ちは東京の日野、高校は日野から山梨に通い、大学は静岡で一人暮らしをしていた。
いわゆる平凡なサラリーマン家庭で育ったが、その時代のサラリーマンという種族の父親は基本的に家にはいない。基本的には母親に育てられた。
生まれた時は4300gという今でいうところの巨大児で、子供の頃から体が大きかった。そして、悪ガキだった。小学校では一番の悪ガキ、中学に入ると少しおとなしくなったが、それでも不良グループ側で見られていた。
高校に入るとラグビーに出会い、荒っぽい血気盛んな若さの力をぶつけられたので、一時は落ち着いていたが、ラグビーの県選抜に入るという直前に肩の靱帯断裂。再び不良コースに戻る。日本一のマンモス大学の付属高校だったので、なんとかその短期大学部に入学し、その後4年制大学へ編入をした。
子供の頃から「俺は人とは違う」という意識が強く、良くも悪くもと言いたいところだが、悪くもの方ばかりでいわゆる悪目立ちするタイプであった。
とはいえ、何かやりたいことや夢があるかというとそうではなく、ただ漠然と「人とは違う」ということだけを常々思っていた。
大学4年の頃、今となっては何の決意かよくわからないが「普通のサラリーマンでは終わらない」そんな思いで両腕にタトゥーを入れた。
就職活動時期になっても、相変わらず何をやりたいということはなく「ともかく、一発当ててやろう」と、当時はブラックで有名な業界「商品先物取引員」や「パチンコ店」ばかりの面接を受けた。「俺は大丈夫」って思っていたが甘かった。
そんな流れでブラック企業の「商品先物取引員」へ見事就職、ブラック全開の新入社員研修。朝日に向かって謎の大声を出したり、砂浜の海岸を夕日に向かって走ったり、ただ、体育会出身者としては合宿のノリの延長だったため、その時点ではまったくブラックだということに気付かなかった。
その研修では「将来の夢」的なことを発表する場面があった。今にして思えば、まるで子供の発表会の様で笑える話だが皆が「〇千万円稼ぎたい」とか「社長になりたい」とか「プレジデントに載りたい」とかいう中、私は「歴史の教科書に載りたいです」と言っていた。完全にイタイ新人枠に入っていたが、要領は良かったので新人の中では上位の有望株と見られていた。
とはいえ、子供の頃は、いわゆる歴史小説が好きであったので、そこに出てくる主人公達の世界観にあこがれを持っていたことは嘘ではない。
意気揚々と張り切っていたものの、研修期間後、いざ営業現場に出ると、経歴詐称してテレアポをするか、1日500件テレアポをするか、私も一応不良の隅っこの方の育ちであるため、ずるい詐欺師にはなりたくないと、後者を選んだ。
同期入社の者たちは前者を選び、詐欺まがいの営業をどんどん決めていく。そして、私は最後の一人となった。
電話の件数は月曜から土曜まで、ありとあらゆる電話帳を片っ端から1日500件近く電話かける、気が狂い、半年で鬱になった。鬱になって精神科で出される薬漬けになった。
入社半年後、合法的な薬の力を借りながら、ウソ偽りのない正攻法で一人で営業を決めた。いわゆる「一発」というやつである。新人で詐称なく一発営業を決めたのはその会社はじまって以来だったそうだ。それだけブラックが平然とある会社であった。その日、帰社したその足で契約書と共に辞表を提出した。
そこから3カ月、薬抜きしつつ、いわゆる第二新卒枠の就職活動をした。
出会い
ブラック企業にこりて、今度はまじめな会社に行こうと決め、第二新卒の就職活動は割とまじめな会社を選んで受けていた。
が、やはり「普通のサラリーマンでは終わらない」という意気込みを腕に入れていたせいか、ベンチャーばかりを狙っていた。とはいえ、当時のマザーズやジャスダック上場していた企業ばかりの面接を受けていたので、ベンチャー色の残っている会社。というのが正しい表現であろう。正直に言うと、鬱になって保身に走っていたのであろう。
何社か受けて落ちてを繰り返し、数社目。
ジャスダック上場している福利厚生を扱うアウトソーシングの営業系の会社の面接が順調に進む。最終面接は取締役営業部長の面接であった。
緊張して面接へ行くとその取締役は新聞を持っている。
「君は商品先物出身なんでしょ?俺、いま小豆やってるんだよね~ほら、良い感じで上がってるでしょ??」面接は終始そんな感じで、ちゃんとした面接ではなかったと記憶している。と同時に、その取締役の方に一瞬で引き込まれた。「この人の下で働きたい」そう思った。入社後に知ったのだが、この取締役は某邦銀で為替取引や商品先物のディーラーをやっていたとの事。入社後もことあるごとに新聞見せてきて「どや?」と気にかけてくれていた。
この会社は福利厚生を扱うこともあって男女比半々、むしろ契約社員を入れると女性の方が多い会社であった。また社員も比較的若く、部長クラスでも30半ば~40代、営業部署は20代ばかりであったこともありそれなりに楽しかった。とはいえ、営業成績はというと、いつも下位グループ。担当者レベルは良いんだけれども、法人となると落とせない。
自分自身に問題があったのだが、営業が決まらないから仕事が飽きてくる。
そんな頃に件の取締役から「本当に済まないが、俺、退職する。独立するわ…」と突然話しかけられる。「え…〇〇さんがいるから続けていたのに…」と私。その会社でのやる気がさらに失せていった。
そして、自分は本当は何がしたいのかと改めて考えてみる。
やはり「国家のために何かがしたい」そう思っていた。前職からの「教科書に載りたい」が継続していたのかもしれない。とはいえ、当時は歴史観などの知識も浅く、マスコミの報道をそのままに受け止め、愛国心バリバリのどちらかというと間違った極右思想であった。某国へ乗り込んで戦ってやる~位に思っていた。
仕事が終わってからは毎日トレーニングをした。逆立ちで腕立て伏せをしていた。最終的には両腕三本指で逆立ちしていた。腕立てまではできなかった。
たしか…片手一本指で逆立ちをするケンシロウを目指していたと記憶する。
というのも、当時住んでいた場所は東府中。近所に航空自衛隊の駐屯地があった。大卒で幹部候補になれるギリギリの年齢。自衛隊へ行こうと思った。
体は学生の時以上にバキバキになり、体力面では問題なし。自衛隊を本気で受けようと応募資料を駐屯地へ意気揚々と貰いに行った。
そして、資料を見て愕然とする。
「刺青禁止」
先に調べておけよって話です。
アメリカの戦争映画とかではタトゥーが入っている兵士がいるのが当然だと思っていたから、完全に誤った先入観。
自衛隊への道は閉ざされた。
勘のいい方はお気づきかもしれないが、
当時、脳筋組であったことは否めない。
「どうしようかな~」と思っていると、会社から転勤の相談が来る。
いわゆる左遷だ。「転勤するなら辞めます」と回答した。
「また、就職活動か…」そう思っていると、件の取締役から連絡が来る。
「会社起こそうと思うんやけど、一緒にどや?」と。
まさに渡りに船とはこのことで二つ返事でお願いすることにした。
起ち上げ
何をする会社なのかも知らない。相場は好きか?
という話だけだったが、何でもいい、ともかくやろう。
そんな状況であった。その頃2006年。
その会社は外国為替に係る情報配信をする会社。
いまでこそネットですぐに情報がわかる時代ではあるが、当時はいまほどの、ネットで調べてポン。という時代ではなかった。
外国為替取引とはすなわちFXの業界である。当時、「ミセスワタナベ」なる主婦トレーダーが流行り、デイトレーダーも増え、ネット証券が少し落ち着き、FX業界で個人投資家が増えていた時期であった。
外国為替取引では、各国の政策金利や経済指標の発表、様々な要因で値が動く。プロのトレーダーたちはBloombergやREUTERS、NIKKEI QUICKなどの月額数十万円する個人端末から情報を得る。個人投資家たちは一歩出遅れて情報を得る。という時代であった。
そこで、我々の会社では証券会社やFX業者の個人トレーダー向けのトレードシステムの中に、24時間のリアルタイムニュースを配信する。
今で言うならばシステム用のニュースアプリを作成していた会社である。
起ち上げ時は6人であったが、早々に入れ代わり立ち代わりがあり、常時10名前後の会社であった。
その取締役のつながりで、立ち上げ段階で既に契約先は数社確保されていた。元財務次官の顧問に、社外取締役は伝説のディーラーの一人、取締役には元日経の記者、そして社長。取締役以上はそうそうたる顔ぶれであった。
私はそこの会社の記者兼営業マンとなった。
外国為替市場というのは、日本時間朝4~5時にニュージーランドのウェリントン市場からはじまり、次いで東京市場、ロンドン市場、ニューヨーク市場で、終わるのが翌朝5~6時。そして再びウェリントン市場となる。
日本時間でいうと月曜の早朝から土曜日の朝までが市場の取引時間となる。
すなわち、日曜日を除いて24時間開いているマーケットであった。
そのニュース配信であるから、我々も24時間シフトでニュースの作成をしていた。
ということで、私の担当は主にはニューヨーク時間。朝に記事の配信を終えてから営業へ行っていた。
とはいえ、そんな生活は長く続くはずもなく、途中から営業の身に専念できる体制を作ってはもらったが、営業は社長と私の二人のみであった。
記者たち含め、24時間体制に合わせるべく会社の近くに家を借りることとなった。この会社は御成門という西新橋付近にあり、晴れて、なんちゃって港区男子となった。
この会社ではまず、金融取引のテクニカル分析やファンダメンタルズ分析を学び、経済を学び、政治を学び、ともかく色々なことを勉強させていただいた。本当にこの時期があったからこそ、今がある。
起ち上げ、翌年、2007年、サブプライムローン問題や、
米投資銀行のベアスターンズの経営が危ないという話に市場は荒れ始める。
翌年2008年。米投資銀行リーマンブラザーズの倒産。
いわゆるリーマンショックである。
相場は本当にぐちゃぐちゃになった。
2チャンネルなどの個人投資家掲示板では悲鳴が飛び交っていた。
数千万飛ばした。などと言う話はよく聞く話で合った。
お金でお金を買う世界は何ぞや?と思い始めた。
そして、当時のリーマンショックの幕引きは素人目に見ても延命措置をしただけで、根本解決をしていない。問題先送りにしただけだと思った。
国会議員の世界
そんな頃、代表から「ちょっと相談がある」と呼び出される。
たしかどこかの居酒屋だったと思う。
「地元の友人に声かけてもらってさ、選挙に出ても良いか?」と。
「選挙となると会社にいないことも多いけど、会社は大丈夫か?」と。
私がどうこう言うことではない。代表は国会議員を目指すこととなる。
私も、政治というものに興味がわき始めていた。
大前研一氏が創設した『NPO法人一新塾』という社会起業や政策提言を実施する若手を育てる社会起業塾へ入塾した。
同じころ、銀座で開催されていた、田中良紹先生という、元々TBSのドキュメンタリーディレクター、海外の政治番組のC-SPAN日本版を作られていた方なのだが、政治記者という観点からの政治の見方をご教示いただくべく、銀座・田中塾という勉強会にも毎月参加するようになった。
2009年、民主党に風が吹いた衆議院議員選挙
当社の代表は民主党から出馬し比例で復活当選。
現在の議員会館の建て替えの直前であった。旧議員会館の頃である。
私は会社と議員会館を行き来するようになる。
※その代表は一度浪人を経験するも、先日の衆議院議員選挙で小選挙区当選をした。本当におめでとうございます。ゆえに、名前は伏せておく。
代表が国会議員になり、私も何かをしたくてたまらない。
それはそうだ。
「お国のために」とか「歴史に残りたい」そう言えば、
現代では、必ず選択肢の一つとして、一度は「政治家」というものに辿りつく。
世の中は、リーマンショックが終わったと思ったら、
豚インフルエンザという話になっていた。
当時クラスター弾の反対が叫ばれていた。
平和運動が増えていた時期であった。
ウォービジネスはもう長くない。そう思った。
豚インフルエンザの際はスイスのロシュという会社のタミフルが大変注目された。もちろん、ロシュ社の株価は暴騰した。ゴールドマンサックスが変なタイミングで株主から抜けた。とか市場に噂が出回る。
何かがおかしい。
SARSから豚インフルエンザ、
市場規模を大きくして実験しているようにしか見えなくなった。
当時住んでいたマンションが11階、ウイルスとなれば、絶対に弱い。
そんな頃に代表の国会議員選出。
その時、政治家を目指そうと思った。
地方移住しよう。そう思った。
2010年、代表の議員会館の部屋の隣、
代表が小選挙区立候補していた時に、比例で共に活動していた方であった。
選挙の時に一緒に活動していたこともあり、議員会館へ行くと、
ふら~っと、こんにちは~的な感覚で伺っていた。
その方は独身であった。
とある会話で、
私「あ、いいですよ。飲み会やりましょうか…」
議「みんなそうやって言うんだけど、やってくれた人は一人もいないんだよね~」と仰るので、
後日、独身若手国会議員数名と私の女性の友人数名で飲み会をした。
本当に過去に例を見たことがないほどのつまらなさ。
皆さん良い方なんです。ただし、まじめすぎる。
モテるかどうかというとそうではない。
そんなことで女性陣は一次会と軽い二次会で早々に引き上げ、
男性陣だけでカラオケで話していた記憶がある。
「藤櫻君さ?小沢一郎とかは興味ある?」
私は田中角栄という方が大好きである。
本当のところはどうかを知らない。すごくすごく興味があった。
田中角栄と言えば小沢一郎である。
「小沢一郎が塾長で政治塾やってるんだけど興味ない?」
そうして、私は政治塾入りを合コンで決めた。
もう、時効であろう。
当時、もう一つの一新塾では合コンしながら間伐作業をするecoコンなるものを仲間たちで開催していた。社会起業のハードルを低くしようという取り組みと、当時は水の問題や、水源地の問題に大変興味があったので山が現場となった。しかし合コンである。何かと合コンにご縁があったようだ。
リーマンショック終わって、豚インフル終わって、
移住をしよう。そう思っていた。
自然のある暮らしがいい。
山梨、長野によく通い、プラス静岡、北海道で悩んだ。
行った先で、党に所属して、どっかで選挙に出よう位の下心もあった。
地方移住
そんな事でなんやかんやと、2011年に退職。
2011年2月中旬小沢一郎政治塾に入塾、山梨某所で地域おこし協力隊採用内定となり、塾明けて翌日に引っ越し。
3月に震災。採用延期。
引っ越してしまっているのに、さぁどうする?からはじまった地方移住。
協力隊の採用が延期になると、財布の入りがない。
退職金で何とかしのぐが、つい先日まで都内で飲み遊んでいたこともあり、早々に使いすぎる。
被災地支援というよりも、万が一に備えてジャガイモ作って、何もなかったら被災地送ろう。みたいな感じでジャガイモを作った。それが移住後一発目の取り組み。
そこから、協力隊が終わり起業。
なんだかんだと8年やりました。
途中、市議会議員補欠選挙にも出ました。
その後、事業は譲渡し、現在は、
前職に関連した施設建設検討的なものを考えさせていただける場にいる。
詳しくはまだ言えない。
ただ、国内で初の形を作ろうとしている。
とても素敵な循環な感じ。いけそう。
移住して13年がたった。
社会人になって20年。
いまは、大きな流れで見ると「想像する未来」の1ページを歩んでいる真最中なのだと思う。「想像していなかった未来」の積み重ねが「想像する未来」を作るんだと思う。
ちなみに、ありがたいことにお声がけも何件か頂くが、
今は政治家という選択はない。
私はそもそもが政治家になりたいわけではない。
何ができているかが重要だと思っている。
性格的にも常に何かをやっていたい人である。
目の前にやるべき事があるというのは求められているということだ。
これをただ、ひたすらに積み上げる。
いま、やりたいことができているから、これがベストだと思う。
何になりたいかではない。
何ができるかだと思う。
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