日本史B 古代9 平安初期の政治
平安初期は桓武(かんむ)天皇が784年に長岡京(ながおかきょう)に都を移してから50年をさします。
Ⅰ桓武天皇の政治 地方政治の再建
①平安京遷都まで
長岡京に遷都(784年)
反対する人の妨害を受ける
平安京に遷都(794年)
②蝦夷(えみし)の討伐
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の設置
蝦夷制圧を専門に行う役職
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が任命(797年)
奈良時代には宮城県あたりまで制圧が進み、平安初期には岩手県まで進む。
胆沢城(いざわじょう)を築いて蝦夷制圧の拠点にする
鎮守府を多賀城から胆沢城へ移す
胆沢城の北に前線基地として志波城(しわじょう)を築く
③地方政治の再建
勘解由使(かげゆし)の設置(782年)
国司の交代を監督する役職
地方にいるため不正を働く国司が多かった
解由状という国司交代の際の引き継ぎの文章を審査した
健児(ごんでい)の制(792年)
郡司(ぐんじ)の子弟に国司の役所である国衙(こくが)の警備をさせた
農民が自前で武器や食料を用意するよりも強い兵士を準備できた
④税制改革
雑徭(ぞうよう)を半分にする
公出挙(くすいこ)の利息を5割から3割に引き下げる
班田(はんでん)を6年に1度から12年に1度に変更
税を納める人が減ったので、納めやすくする仕組みを実施した
Ⅱ平城(へいぜい)天皇の政治
藤原薬子(くすこ)が力を握る
薬子は藤原式家の出身
Ⅲ嵯峨(さが)天皇の政治 中央政治の強化
薬子の変(810年)
藤原薬子が平城上皇を天皇に戻そうとした
薬子の変は失敗に終わり薬子は自殺 式家が没落
蔵人頭(くろうどのとう)(810年)
天皇の秘書官
藤原冬嗣(ふゆつぐ)が就任する(藤原北家出身)
検非違使(けびいし)(816年)
京内の警備や裁判を行う
中央政治の強化を推し進めた
※嵯峨天皇は三筆の一人として唐風の書の名手でもあった
Ⅳ法令の整備・直営田の発展
格式の作成
大宝律令や養老律令を修正、補強するもの
格(かく):律令条文の補足や修正
式(しき):法律を施行する際の細かい取決め
格式をまとめた結果
弘仁(こうにん)格式・貞観(じょうがん)格式・延喜(えんぎ)格式
まとめて三代格式という
その他法令の整備
養老律令の官選の注訳書:令義解(りょうぎのげ)
三代格式の格を分野別に編纂した書:類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)
直営田の発達
律令体制の崩壊が進み税収入が減少したのがきっかけ
勅旨田(しょくしでん):皇室の財政を確保するための直営田
官田(かんでん):官人の給与をまかなうために畿内におかれた
公営田(くえいでん):大宰府の運営費用を賄うためにおかれた
次に見てほしい記事
いいねやnoteのフォローもお願いします。これから記事を書く時の励みになります。
また、ツイッターもやっているので、こちらもフォローしていただけると嬉しいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?