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自分から「不幸」になる人間が多すぎる

世の中には自ら進んで「不幸」になる人が大量にいる。

それほど不幸な境遇でもないのに、実態以上に不幸だと思いこんでいるのだ。


世の中には他人を「不幸」と決めつける人が大量にいる。

本人は不幸だと感じていないのに、求めてもいない助言や説教をしてくるのだ。


自分から不幸になる人、他人を不幸と決めつける人


冒頭の話は『コンビニ人間』という小説を例にすると分かりやすい。

むろん同書を読んでいない人にも分かるように説明する。

(かつネタバレは極力避けるようにして書く)


今回この小説で注目したい部分は2つある。

ひとつはコンビニバイト暦18年の高齢フリーター古倉と、彼女に”まっとうな生き方”を押し付ける「普通の人たち」との対比だ。

そしてもうひとつは、同じく高齢フリーターである白羽(男)と古倉との対比である。


古倉と白羽はどちらも世俗的な価値観からすれば社会不適合者であり、肩書きだけでなく言動も明らかに”普通”からズレた変人だ。

ところが両者の現状に対する捉え方は大きく違う。


白羽は現状に強い不満を感じているが、古倉は現状にさほど不満を感じていない。

白羽は自らの社会的立ち位置を惨めに感じているが、古倉は惨めさを微塵も感じていない。

白羽は世の中に対する憎しみからたびたび攻撃的な発言をするが、古倉はどんな理不尽な目に遭おうがまったく怒りを感じない。


同じような「社会的階級」に属しながら、どうして両者の感覚はここまで異なるのか。

それは両者の依拠しているものに起因する。


不幸な人間はなぜ不幸なのか?


白羽は世間に不満を抱きながらも、その価値観を内面化している。

世俗的な価値観に文句を言いつつ、同じ価値観に基づいて「まっとうな社会人」からかけ離れた古倉を批難する。

つまり世間を嫌いながら世間と同じ価値観を共有しているのだ。


そして彼は自分が「まっとうな社会人」から程遠いことも自覚している。

理想は世間と一致しているものの、現実がそこに追いつかない。

この理想と現実とのギャップが、現状への不満、惨めさ、世間への憎しみを生み出す。


これは白羽だけに当てはまる話ではない。

多くの現代人を苦しめているのは”他者のまなざし”だ。

より正確にいえば「他人はきっと自分をこのように見るに違いない」という”想像上の他者のまなざし”だ。


"他者のまなざし"の原型となるのは自分の価値観である。

自分の価値観と世俗的な価値観とのあいだにズレがなければ、世俗的な価値観がそのまま"他者のまなざし"の原型となる。

不安、不満、劣等感、恥ずかしさ、疎外感といった感情はそこから生まれる。

まなざしの地獄の中で、自己のことばと行為との意味が容赦なく収奪されてゆき、対他と対自とのあいだに通底しようもなく巨大な空隙のできてしまうとき、対自はただ、いらだたしい無念さとして蓄積されてゆく。

見田宗介「まなざしの地獄」,『見田宗介著作集6』岩波書店.


古倉はなぜ不幸ではないのか?


一方で古倉は、世間と同じ価値観を共有していない。

彼女が依拠しているものはロジックである。

世俗的な価値観に依拠すれば「惨めな高齢フリーター」であっても、自身のロジックに照らせば何もおかしいところはない。

30代半ばでコンビニバイト以外の職歴がなかろうが、彼氏いない暦=年齢であろうが、彼女からすれば惨めでも不幸でもないのだ。


作中では、良かれと思って彼女を「まともな人間」にしようとお節介を焼く人たちが出てくる。

現実世界にも普通と違う生き方をする人間を「更生」させようとする人は多い。

だがたいてい余計なお世話でしかない。


古倉や白羽は僕ら自身である


『コンビニ人間』はフィクションなので、登場人物は極端な形に単純化されている。

だが彼らは我々と無関係な存在ではない。

古倉も白羽も、彼らを排除しようとする普通の人たちも、僕らが心のうちに持っている一部を抽象し誇張したものに過ぎないからだ。


作中で古倉は、周りの人間のしゃべり方を模倣することで周囲に馴染もうとする。

「常識的な振る舞い」を彼女なりに学習し、周りから浮いてしまう言動は極力避けるように心がける。

似たようなことは多かれ少なかれ、意識的にせよ無意識的にせよ、誰もがやっていることだろう。


白羽は言葉遣いが過激なため、極めて異常な人間に見える。

だが彼に近いことを言っている人間はネット上にも現実にも山ほどいる。

作中で彼は(自分を棚に上げて)彼以外のコンビニ店員を「底辺」と罵るが、似た価値観を持っている人間は現実世界にも大量に存在する。

白羽は社会的地位が低かったが、立派な肩書きを持つ者が職業や学歴で人を見下すことは決して珍しくない。


また、自分を棚に上げて他人を批難するのも彼に限らない。

人は誰しも自分を例外にしがちであり、それは僕も含めた多くの人が(おそらく無自覚に)経験していることだろう。


作中に出てくる「普通の人たち」も同様だ。

いくぶん誇張されてはいるが、彼らと同じように他人の幸せを決めつけたり常識的な価値観を押しつけたりする人間はいくらでもいる。

これもまた僕にまったくないとは言い切れない。


つまり程度の差こそあれ、誰の心のうちにも古倉や白羽や「普通の人たち」は存在するのだ。


現代人を「不幸」にするもの


ネット上には自分の不幸を嘆く人間が数多く存在する。

一方で僕自身はというと、正直ほとんど不幸を感じていない。

こう書くと不愉快に感じる人が多いと思うが、毎日が楽しくてしょうがないのだ。

(具体的にどんなことを楽しんでいるかは別の機会に書く)


そんな僕はどんな社会的立ち位置にいるのか?

古倉や白羽に近い立ち位置である。

30代半ばの今にいたるまで正社員歴はないし、なりたいと思ったことも一度もない。

そこそこ有名な大学に行ったものの、就活は一切せずフリーターになった。

毎日8時間も働きたくないからだ。

自分の魂を工場に持って行く。退出する時は疲れすぎてもはや魂を持っていない。たとえ持っているとしても、夜が訪れて、きょう一日八時間続けて自分がどうであったか、また、明日、次の日どうであろうかを考えるのは何と苦しいことだろう。

シモーヌ・ヴェイユ『労働と人生についての省察』黒木義典ほか訳,勁草書房.


彼女もいなければ友人もいない。

収入は下手したら学生のバイトにも負ける。

世俗的な価値観に照らせば典型的な「負け組」だろう。


ではそんな立場でありながらなぜ不幸を感じないのか?

世俗的な価値観をまったく信じていないからだ。

幼い頃から”普通の外”にいた僕からすると、その価値観は明らかに矛盾と欺瞞に満ちていた。


一般的に「勝ち組」と言われる職業に就いている父親は、僕の目には無期限の労役刑に処せられているようにしか映らなかった。

「善いこと」として教えられる諸々の道徳は、僕への攻撃を正当化する理由としてよく働いた。

「みんな違ってみんないい」と宣う教師は、テストの成績ではなく”人間性の優劣”を通知表に反映させた。

「世論」と自分の考えが一致することは今でもほとんどない。


僕にとって世俗的な価値観とは、一瞥しただけでデタラメと分かるインチキ宗教の世界観のようなものだ。


僕を支えるもの


古倉と同様に、僕の依拠しているものはロジックである。

ロジックに照らせば、世間の人々が信じているほど「まともじゃない生き方」は不幸ではない。

世の中で不幸とされていることの多くは、それ自体が不幸を生んでいるのではなく、各人が勝手に不幸だと思いこんでいるだけである。


これは何も僕のような「下位」の人間に限らない。

パートナーや子供に恵まれていたり、平均かそれ以上の収入を得ていたりするにもかかわらず、現状の不満を嘆いている人間は星の数ほどいる。

「下位」の人が「平均」の人と比べて自分を惨めだと思うように、「平均」の人もまた自分より「上位」の人と比べて自分を惨めだと思っているのだ。

さらに「上位」の人もまた「より上位の人」に対して劣等感を抱く。


あるいは「同位者」や「下位者」に対して自分の地位を誇示することで自尊心を充たそうとする人もいる。

数千円のスマートウォッチより不便な「ロレックスの時計」が未だに売れ続けているのは、「上位者」になっても虚栄心からは逃れられない証拠だ。

われわれは、自分のなか、自分自身の存在のうちでわれわれが持っている生活では満足しない。われわれは、他人の観念のなかで仮想の生活をしようとし、そのために外見を整えることに努力する。われわれは絶えず、われわれの仮想の存在を美化し、保存することのために働き、ほんとうの存在のほうをおろそかにする。

パスカル『パンセ』前田陽一ほか訳,中央公論社.

不足感


人はつねに不足感に苛まれる。

僕の人生を振り返ってみてもそうだ。


いじめられていた頃は、イジメっ子さえいなくなればそれだけでよかった。

だがイジメっ子がいなくなると、今度は友人が欲しくなった。

だが友人(らしき存在)ができると、今度はもっと気の合う親友が欲しくなった。


「興味のない人ばかりに好かれて本命には好かれないんです」

そう語る芸能人を見て、ぜいたくな悩みだと思っていた。

だがいざ自分が女性から好意を寄せられると、自分もまた

「もっと好みの子から好意を寄せられたい」

と思うようになった。


このように人間の欲望にはキリがない。

これさえ満たされれば……と思っていても、いざそれが満たされると新たな不足感が生まれる。

近年ではSNSの普及によって、自分より「上」の人が容易に見つかるようになった。

誰かと比較し続ける限り、一生不足感からは逃れられない。

むろんこうした不足感は捉えようによっては向上心の源にもなるため、必ずしも悪いものとは言い切れないが……

勝ち負けとは、他人との比較の結果なのだった。しかし、自分の幸福とは、他人との比較の結果で得られるものなのだろうか。比較とは文字通り相対性である。他人と比べて金がある。他人と比べて名声がある。しかし、それは、別の他人と比べれば金はなく、また別の他人と比べれば名声もない、ということに他ならない。他人と比べてまだ足りない。まだまだ自分は幸福ではない。心の休まる時はないだろう。しかし、心の休まらない幸福とは一体何なのだろうか。相対的幸福は、その相対性ゆえに、決して満足されることはないのである。

池田晶子『勝っても負けても』新潮社.


不足感を解消するもの


不足を充足させれば新たな不足が生まれる。

ではどうすればいいか。

不足を掘り下げればいい。


なぜAが足りないことに不満を感じているのか?

Aが足りないとBが発生するからだ。

ではBが発生することがなぜ不満なのか?

Cが発生するからだ。

ではCが発生することがなぜ不満なのか?


……というように掘り下げていくと、重要だと思っていたものがそれほど重要でないことに気づく。

日頃からこのような問答を繰り返していれば、いかに世俗的な価値観がいい加減で無根拠であるかが分かる。

世の多くの人たちが、いかに知らない事柄を知ったような口ぶりで話しているかが分かる。

そして世間で「不幸」だと見なされている生活が、必ずしも「不幸」とは限らないことが分かる。

一般に欠如の感覚は 欠如を充たすことによつて消解するのでなく、正しく僕の経験によれば、掘り下げることによつて消解するのである

吉本隆明「不幸の形而上学的註」,『吉本隆明全集2』晶文社.

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