我が家の愛情物語 毒母ではないママ編
以前の記事に、母は毒母と書きましたが修正致します。
母は、おそらく境界性人格障害やら統合失調症やらで、父亡き後家族に大変な思いをさせました。
しかし、母にはにょろちゃんとお姉の私に対する確固たる愛情がありました。
母が晩年書いた自分史ノートには、
どうしても、自分が考えている事と正反対な事を言ったり行動に出してしまう。
私が娘達の人生を滅茶苦茶にしてしまった。あの子達には土下座しても足りない。
という記述がある。
確かに、母が言った事は殆どすべてが正反対だ。
一生苦しんだだろう。その症状で。気の毒でたまらない。
母は、認知症になり警察や行政に無理矢理施設に連れて行かれた。にょろちゃんも私も酷くショックを受けた。突然だった。
その後1度だけ自宅に1時間半だけ帰って来た。
その時お姉の私は、
シューマン ウィーンの謝肉祭の道化
ベートーベン ピアノソナタ郭公
やら弾いた。
既に病気でやっと母のために練習した。
母は、大きな拍手をくれた。
生涯でいちばん最高のステージかもしれない。
ここまで書きながら、涙が止まらない。
また母は、にょろちゃんとお姉が施設に面会に行くと、後で事務で紙を貰い長々とありがとう。雨の中をありがとう。毛布は助かります。ママもピアノの仕事がいちばん良いと思います。
など、認知症でもしっかりした文章を書きまた事務に持参してFAXで送って貰っていた。
全部保管しています。
認知症が酷くなり、素顔の母が現れました。
にょろちゃんと私のしつけも母です。
挨拶はしっかりしなさい。たとえ相手の人が返してくれなくてもなど。
小学生はじめの時です。
にょろちゃんと私の音楽、殊に文学は母のお陰です。
私が3才の時、初めて知り合いのピアノ教室に連れて行きピアノを習わせてくれたのも母です。
母も易々と、ソナチネくらいは弾きました。自分が習いたくても出来なかったピアノを、にょろちゃんとお姉の私に習わせてくれました。いわば母の夢です。
当然ですが、病気でなかなか弾けなくなってもピアノはにょろちゃんと私を支えています。自分の大きな軸です。
にょろちゃんも私も赤ちゃんの時から、昔のソノシート、レコードを沢山聞いて育ちました。
父と母が流してくれました。童謡のレコードに合わせてにょろちゃんと2人で歌いました。
母が書き残して認知症になり暴れた時、大切にトートバックに入れて母が寝ていた部屋の隅に置いてあったにょろちゃんとお姉の私の育児日記があります。
にょろちゃんと私が2才の時、だいぶレコードに合わせて歌う音程がしっかりしてきた。
という記述があります。親バカかもしれませんが。
にょろちゃんも私も、幼い記憶としてレコードと一緒に童謡を歌っていました。
母は毒母みたいですが、どうしても母を嫌いにはならない。憎み切れない。
やはり母が大好きです。
我が家は最高に幸せな家族です。
パパ、ママ、おばあちゃんありがとう。
にょろちゃんと私を守ってね。