
大家さんに「さては、食べたな?」と言われた日
うちの大家さんはとても優しいし、本当に人がいい。
備え付けの洗濯機が壊れたときは何度も助けに来てくれたし、家のドアが開かなくなって締め出されたときも、1時間もせず駆けつけてくれた。
夫がこの国に来たときは、会うのはそのときが初めてだったというのに、空港まで車で迎えに来てくれたうえ、一緒にイケアまで行って生活に必要なものを買いに行ってくれた、筋金入りのいい人なのである。
そんな大家さんの唯一の気をつけなければいけないところは、ほんの少し几帳面なところだ。とくに、アパートの保全に関する工事や点検には命を燃やしている感じがあった。
わたしたちが入居したとき、アパートはリノベ直後だったので、お家に設置しないといけない火災報知器や、ハイツング(セントラルヒーティング)の修理とメーター取り付けが終わっていなくて、すべてのタイミングで大家さん立ち会っていた。
とくに配管系には厳しくて、ハイツングを修理する作業員をベタ付きで監視していたし、初期不良だった洗濯機を入れ替える時は自らの手で作業した上で水漏れの徹底チェック。
それでも水漏れする可能性に備えて、配管周りに持ってきた使い込まれたTシャツ巻いたうえで敷き詰める、と徹底していた。
ドイツに来て1年弱くらいは、その手の修理、点検などが色々あって、なんだかんだ月に1回は我が家に来ていた時期もあったのだけれど、そのたびに「大家さんパトロール」があった。
リビングのカーテンが汚れていると「このカーテンは洗濯機で洗えるよ」と洗濯を促されたり、バスルームの換気扇のフィルターを見て「これは月に1回の掃除がおすすめかな」みたいな感じで優しく案内してくれる。
家具家電、カーテンまで備え付けのアパートだったから、定期的にチェックが入るのは仕方がないというか、むしろ後でなにか言われるよりはマシかなと思っていた。
2年しかない滞在期間で家電や家具を買い集め、帰るまでに売り払ったり処分するのは、面倒すぎる。それに比べたら、大家さんの点検なんてまったく問題ないと思っていた。
ちょっと緊張はする。でも、大家さんがもう少し口うるさくても、お釣りが返ってくるくらいお得な物件だったのだ。
細かいアドバイスもあるにはあったけど、古の「姑の嫁いびり」みたいになりかねないことを、言語よわよわな私にユーモアを交えて案内してくれた。大家さんの気遣いが本当に素敵で、お互い言葉が通じずあわあわしていても「大丈夫、文明の利器があるからね」とスマホを取り出してくれる。
本当に天使みたいな大家さんだ。
見た目は身長2m近い、くまさんみたいな巨人系天使だけれど。
だから大家さんを迎えるときは、しっかり掃除をして迎える。
以前言われたところは見られる予定がなさそうでも、念入りに。
掃除はしておいてダメなことは基本ないから、むしろ大家さんのお陰でドイツでのQOLが上がっていたかもしれないとすら思う。
例の指摘を受けたカーテンの汚れは漂白してもまったく取れなくて、夫と協力してドイツ名物「牛の胆汁石鹸」を駆使して、なんとか落としたりすることもあった。
こんな感じで、胆汁石鹸の威力を楽しむこともできた。

ドイツのドラッグストア「dm」で1ユーロしなかったはず
「大家さんコントロール」で指摘されたことをちゃんと修正する姿勢を評価してもらえたのか、お互い長期休暇へ行くとお土産を渡し合ったりもする、なかなか良好な関係を築けていたと思う。
しかし日本帰国も迫った今年のはじめ、ある問題が発覚した。
それは冷蔵庫で、なぜか冷蔵庫の中段の棚の角に穴が開いていたいたのだ。
その穴自体はもう少し前から気づいていたのだけれど、元からそういうものだと思っていた。なぜなら、押し引きできるわけでもない棚の隅っこだからだ。そこをピンポイントで鋭利なものでつつかない限り穴なんて開くはずがない。
どうしてそんなところをわたしが穴を開けたと思えるだろうか。いやない。
そんなわけで穴が自分のせいだとも思わず、冷たい空気を流すための穴かなんかだと思っていた。しかしこの前年明けに冷蔵庫を掃除していたら、その棚の反対角には穴が開いていないことに気づいてしまったのだ。
実際にご覧いただこう。

近づくとしっかりと破損している。
でも冷蔵庫掃除はこの2年弱で何度かしてきたけれど、破損したかけらを見た記憶もないのだ……。
しかし、入居時にアパートの中にあった電化製品は、すべて新品だったのだ。つまり冷蔵庫も新品のはずである。
ということは……。
ニョコロ*、大ピンチである。
家具家電備え付けのアパートなので、この冷蔵庫も備え付けで大家さんのものだ。
バスタブの栓を締めるための丸い取手を、ドイツに来たばかりで使い方がよくわかってない頃にぶち壊してアマゾンで取り寄せたことはあるけれど、この手の取り寄せが難しそうなものを壊したことはない。

こいつ、見かけによらずプラスチック製なのです
ついに、あの大きなくまみたいな天使さんを怒らせてしまうときがくるのか……?
取り寄せるにもお風呂の取手と違って高そうだし、どうしよう……
ハラハラしながら、ついに先日、大家さんが解約手続きの説明をしに我が家を訪れた。
後ろめたさもあったし、退去前に色々チェックが入るのは予想できたから、いつもより念入りに掃除をしておいた。
懸念は冷蔵庫の隅にある穴だけなのである。
退去まわりの手続きや、インターネットやテレビの受信料など、帰国するまでにやっておいたほうがいいことの案内もしてもらって、ついに大家さんが「アパートで壊れているものなどはある?」と夫に質問した。
運命のときが、ついに訪れたのである。
夫は大家さんと一緒に、2年過ごして気になったところや不具合などの説明して回りながら、ついにキッチンへやってきた。
この穴のことは、事前に夫にも伝えてある。
冷蔵庫を開けて、穴の説明を夫が説明してくれた。
大家さんは眉を寄せながら、わたしたちに言った。
「さては……どっちかが食べたな?」
大家さんは顎を手にやりながら、わたしと夫を交互に見る。
思わぬ角度からの犯人探しに、二人で思わず吹き出してしまった。
大家さんも笑っていた。
「それにしても、どうやったらここに穴があくんだ??」
大家さんはむしろ関心を示していた。
「たぶん固くてシャープなものをここにぶつけたんだと思うんだけど…」
「冷蔵庫に? たとえば?」
「……いや、思いつかない」
「だよな?」
そんなやりとりを夫と大家さんがしていた。
そんな意見交換の後、こちらの穴については無罪放免となった。
冷蔵庫が使えなくなるようなものじゃないので、この穴で修理費を求めるつもりはないらしい。
夫と二人でほっとしていると、大家さんは「やっぱり食べたんだろ?」と言っていた。
わたしが英語のやり取りに珍しく吹き出していたから、どうやら気に入ってもう一度言いたかったようだ。
とっさに「No, no way !!」と言ったけれど、「美味しかったわ」くらいのことを返せばよかったなと、今はちょっと後悔している。
とはいえ、とくに大事にならずほっとした。
解約の手続きも終わり、大家さんからは「良好な関係を築ける稀有な借り主だったよ」というお褒めの言葉を貰った。
ドイツと日本ではお掃除周りの「綺麗」の感覚に違いがあるというのは、事前に調べる中で知っていたから、大家さんから言われたことはせめてやろうと思って徹底していた。
その作戦が、功を奏したらしい。

家族が旅先のマグネット集めが趣味なのでお土産用に買い集め、ここに貯めている。
これを見た大家さんはサラエボのマグネットに興味を示していた
海外で生活していると、先人の日本人たちが作ってきてくれた日本人の良いイメージに助けられることが度々あった。生活の中でもそうだし、旅先でも結構ある。
日本のエンタメも日本のイメージにそこそこ影響しているのだろうけれど、興味や親近感が湧く要因になったとしても、「面白いエンタメがある国の人だから優しくしよう」とはあまりならない。
やっぱり人と人のコミュニケーションの中でできあがったイメージに、助けられているのだと思う。
とんなときでも住む国の人に「いい人であれ」とか「言いなりになれ」とは言わない。ただでさえなれない生活のなか無理していい人なんてやっていたら疲れるし、言いたいことや思うことがあるなら言っていいと思う。(特に西欧では)むしろそっちのほうが人として好かれる傾向すらある気がする。
ただ約束を守るだけで、めっちゃ評価が上がるというのもある。どんな約束でも、守るだけで日本の2倍は効力があると、わたしは思った。
日本だと約束は「守って当然」「守るのが普通」と思われがちだけど、日本を出るとそうじゃない場合が多いからだろう。
無理な約束はしちゃダメだけど、守るべきだと思ったことはちゃんとやろ!それだけで印象がぐんと良くなるから!と思う。
日本人のイメージ云々……と色々言ってしまったが、正直、日本人のイメージを守るとかは二の次でいい。とりあえずやっておくだけで、「自分」という個人の信頼度が上がる。そういう意味でもぜひおすすめする。
ぜひ、心の隅に留めおいてほしい。
大家さんと会うのは、鍵を引き渡すためのあと1回だ。
大きなくまさん天使を、モンスターの如く怒り狂わせないためにも、最後まで気を引き締めていきたい。
いいなと思ったら応援しよう!
