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国際紛争に関する研究、北アイルランド紛争 #03、アイルランドの歴史と最新事情・WWII以前

北アイルランド問題についてより深く理解するには北アイルランドだけでなくアイルランド本土の歴史と政治事情・最新事情について理解する必要があると考え章を2つほど付け足すことにしました。今回は鈴木良平氏の「アイルランド問題とは何か」北野充氏の「アイルランド現代史」を底本に学習を進めています。

①基礎知識
②北アイルランドの政治勢力・武装勢力
③アイルランドの歴史と最新事情、WWII以前
④アイルランドの歴史と最新事情、WWII以後
⑤コミュニティーの分断とナショナリスト・ユニオニストによるアイデンティティー政治
⑥北アイルランド紛争後の権力分有と和解

ジャガイモ飢饉・人口減少からの回復


アイルランドを見舞った歴史的な悲劇として、アイルランド島にて人口が大激減するきっかけとなったジャガイモ飢饉が知られている。
1815年ワーテルローでの戦いにてナポレオンが敗北、フランス革命による混乱と戦争が終わると安い小麦がヨーロッパ大陸からイギリス・アイルランドへと輸出され始める。イギリス人の地主は小麦を主に酪農用として使い、アイルランドの畑を豚肉等を増産するための牧場に変えようと考えジャガイモ用の農地が減反され始める。
1840-1850年ごろのアイルランドではイギリス地主による減反・ジャガイモの不作・ジャガイモの疫病が流行したこともあり、食料が不足し始める。この10年間で約100万人が餓死、100万人ほどがアメリカ大陸・イギリス本土へと移民したとされている。
アイルランド全島の人口減少は1841-1961年まで続き、650万人から280万人にまで減少している。1991年当時には350万人に回復しているが、近代に人口が減少したきわめて稀なケースとなっている。この期間アイルランド本土から難民化して移住したアイルランド人は約700万人と推測されており、特に現在アイルランド系アメリカ人は約4000万人の人口を占めている。

条約賛成派・条約反対派の対立


アイルランドの世論を2分する要因の一つに1916-1921年代、アイルランド独立をめぐって争われた「イギリスによる二重王制を認めるか、完全な独立を目指すか」という対立軸がある。ここではイギリスによる二重王制を認める派閥を自由国派、完全な独立を目指す派閥を共和国派と呼称する。

IRAよりさらに古いルーツを持つ反イギリス武装組織として、1858年に結成されたアイルランド共和主義団(IRB、Irish Republican Brotherhood)がある。IRBはニューヨーク・ダブリンの2都市で同時に結成され、アメリカ支部は「青年アイルランド党」による蜂起に失敗しアメリカに亡命したジェイムズ・スティーブンズが担当していた。アイルランド共和主義団の団員の多くは、アメリカ南北戦争にて北軍に参加した経験を持っていた。

1916年、イースター蜂起の際にIRB団員のパトリック・ピアスがアイルランド共和国臨時政府が設置、その際にアイルランド共和主義団の多くが臨時政府に合流する。臨時政府が”The Army of The Irish Republic”という名称を初めて用いたことで初めてIRBの軍事専門組織となるIRAが結成される。

1921年、アイルランドは英愛条約に調印し南部26州がイギリスから独立するが、自由国派のIRBの局長・マイケル=コリンズと共和国派のIRA軍執行部が対立し始める。1922年3月、アイルランドの正規軍からIRAが離反し、英愛条約で禁止されていた軍大会を行ったことでアイルランド自由国・正規軍から独立した政治組織となる。1922年6月にはアイルランド正規軍とIRAで内戦が始まり、終戦にいたるまでの10か月ほどで665人が死亡・約3000人が負傷した。
条約賛成派・条約反対派の対立は近代でもフィナ・ゲール党(Fine Gael - ゲールの家族)、シン・フェイン党から分派したフィアナ・フォイル党(Fianna Fáil - 運命の兵士)の対立として残り続けている。両党はアイルランド民族主義・中道右派の政党で国民からの支持も篤いが、2020年まで一度も連立したことがなかった。

「30万ユーロで建てる家」というシン・フェイン党の公約は実現不可能、として批判キャンペーンを行うフィナ・ゲール党。アイルランド与党とシン・フェイン党はポピュリスト政策や北アイルランドでの議会ボイコット主義が新たな対立軸となっている
フィアナ・フォイル党の掲げる公約。フィアナ・フォイル党は中道右派政党だが、環境保護・持続可能な発展、欧州協調主義など日本では「左派的」と見做されそうな政策も重視している

ファシズム・共産主義のアイルランドへの影響


1930年代、アイルランドはイタリアのファッショ党やソ連共産党の影響を受け、退役軍人らを中心とする「青シャツ党」やマルクス主義の影響を受けIRAから分派した「共和主義者会議」といった極右・極左組織が台頭し始める。青シャツ党とIRA・共和主義者会議は街頭で衝突する等対立を繰り返すが、デ・ヴァレラ政権を支持するIRAが政府の支持を受けたことでアイルランドにおける極右・極左組織は撲滅される。
1939年、枢軸国との戦争開始に危機感を抱いたイギリスはアイルランドと協力して関税撤廃を条件に南部26州の港湾を返還するが、南北分割の解消に至らなかった。IRAはこれに不満を抱き1月にイギリス本土で爆破事件を多数発生させる。
アイルランドはIRAを厳しく取り締まるため、1939年7月「国家犯罪法」を制定しIRAを非合法化する。デ・ヴァレラ政権はIRAと蜜月関係にあったが、非合法化がきっかけで完全に対立する。これは1939年5月、イギリス・フランスがナチス・ドイツに宣戦布告したのちも中立を維持し続けるための策でもあった。
1940年5月、ナチス・ドイツがデンマーク・ノルウェーに侵攻・6月にパリを陥落させるとチャーチル首相がアイルランドに全面的な支援を求め、アイルランド全島の統一という条件で連合国側での戦争参加を求める。しかしデ・ヴァレラは枢軸国の勝利を予見し中立を維持し続ける。



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