ただ歩いているだけなのに、風がちがうの。
歩く、たったその動作だけなのに、その身にまとっている風が全くちがう。人間という点は同じなのに、歩くという動作なら自分にもできるのに、その風、空気感は歴然とした差がでていた。
ご卒業される先輩方を目にして鳥肌が立った。
聖心女子大学では卒業式のまえにトーチライト・プロセッションという伝統行事がある。灯火を新卒業生の持つロウソクから在学生の持つロウソクへと送っていくものだ(詳しくは大学の公式サイトをご覧いただきたい)。
今日は在学生として、トーチライト・プロセッションに出席した。在学生が先に着席し、最後に卒業生がホールに入場することになっていた。私は穏やかなホールの椅子に座り、四年生が入ってくるのを厳かな面持ちで待っていた。会場の照明はほとんど落とされ、ほのかな明かりだけだった。
ホール後方の入口が大きく開かれ、一斉に卒業生が入場してきた。かぶっている角帽のふさを揺らし、風を切り、ガウンをはためかせて、颯爽と歩いてきた。
そのとき鳥肌が立った。息をのんだ。
真っ直ぐ前をみて、凛々しく、堂々とホール中央へと歩いていく先輩方はまとっている空気も姿もあまりにも自分と違ったのだ。
これからこの大学を巣立ち、それぞれの道へと歩いていくのだ、というような決意を感じた。
本当に私と二つしか学年がちがわないの?
そう思うと同時に、
きっとこれが聖心女子大学で学びを修めた女性の姿なのだろう
という考えに至った。
たかが二年、されど二年の経験の差は大きい。
もしかすると、先輩方は私が感じた”まとう空気感のちがい”をご自分では気づいていないかもしれない。当人からすれば四年間”いま”すべきことを積み上げてきただけのこと、がむしゃらに学生生活を打ちこんできたらもう卒業だった、というように思っているかもしれない。
けれども若輩者の私にとってその四年間でつまれた修練の差ははっきりと感じられた。
そして先輩方のような凛とした女性へと育てて下さる大学なのだと、あらためて感じた。壇上に座る教職員の表情が、優しく卒業生へ向けられているのを私は気づいたのだ。
私が卒業するときには、今日感じた先輩方のように颯爽と凛とした姿にすこしでも近づけていたら、と考えずにはいられなかった。