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自分のことは一番見えないこそ信じられる恩師の言葉。

私が今まで出会った上司の中で理想の上司だと思える人がいます。その方は私が大阪にいた頃、東京へ行くための資金づくりで会社にいきながらこっそりアルバイトしていた飲食店の店長 春高勇次さん。人に対しての接し方が分け隔てない感じで、親分のような安心感がある方でした。

春高さんは大学卒業後メキシコ料理店からイタリアンを経てワインと出会い、その後ワイン輸入会社が運営する飲食店で店長や統括を勤め、8年前に飲食の現場を離れワイン小売店へ。

そんな春高さんに10年ぶりにお会いし、飲食との出会いから老後の話まで色々お伺いさせていただきました!ワイン片手にどうぞ。


人が集うことが楽しくて飲食業界へ。

──飲食店で働くというのは、小さい頃からの夢だったんですか?

実は一番なりたかったのはプロ野球選手やねん。小学校からずっと高校3年まで真剣に野球をやっていて、大学は体育系の大学に行こうと思っていたけど、体育系の大学に全部落ちて、どうしようって。でも大学は行きたいと思って、一浪して近大の経営学部に入った。入れたのがそこだけだったしね。(笑)  で、浪人している間は大学に受からなって必死だった。予備校行って勉強ばっかしてたらもう野球の体じゃなくなってたね。もう自分には無理やんなと思った。

──まさか、野球選手になりたかったとは知らなかったです。

野球選手、なりたかったね〜。今でもまだなりたいくらい!もし戻れるんだったら中3に戻って高校受験をもう1回やり直したい!(笑)

──飲食はどのタイミングで興味を持ち始めたんですか?

大学時代はほぼ飲食店でバイトをしていて、その店のスタッフがみんな仲良かったのもあるんかな。飲み会とかも多かったし、地方から出てきて友達もおらんかったから人が集まって話すのが楽しかったのもあるかも。

大学後、飲食に就職しようと決めてたけど、単位が1個足りんくて留年してもうてん。卒業できないから内定も取り消しになって、もう1年大学生活して。でも1つしか単位とらんでよかったから、バイトばっかりしてた。その時、メキシコ料理店でアルバイトしてて、そこがめちゃめちゃ楽しかったから卒業すると同時にその店に就職した。

──メキシコ料理店では何をしていたんですか?

最初はキッチンで料理を作る方を目指しててん。中2ぐらいの時に親が離婚して母親がいなかったから、朝飯もお弁当も自分で作ってたし、元々料理を作るのは好きやったと思う。

──なんでそんなに飲食にハマったんですかね?

人が好きっていうのもあるんかな、集まって喋るのが楽しかったんやと思う。それに食べるのも飲むのも好きやし、自分の料理を作って喜んでもらえるのもよかったんちゃうかな。

キッチンからホールへの転換。
唯一できなかったのはお客さんを笑かすこと。

──最初は料理人を目指していたと言ってましたが、私があった時は店長でしたよね?どのタイミングでホールに出たんですか?

メキシコ料理店の後、イタリア料理店に行き、その後ワイン会社が運営するお店にキッチンで入ったんやけど、現場の一番偉い人に「お前はキッチンでは金稼がれへん、ホールに出なさい」て言われてホールに出たのがキッカケ。31歳くらいの時だったかな。そこからホールをやるようになった。メキシコ料理のお店でもホールとキッチンやっていたからなんとなく分かっていたつもりやったけど、全然ダメやったね。

関西のホールっていうとお客さんから笑いを取らなあかんみたいなのがあって、それがプレッシャーやった。姉妹店の店長とかめちゃめちゃ面白かったから、それを見てると根っからの関西人はさすがやなって、ああいうの俺は無理や、ようボケられへんなって思って、すごい葛藤してた。

今で九州20年、大阪30年おるけど、大阪に30年いてもやっぱり生まれつきの関西人は笑いの取り方が違うね。下地がしっかりしてる。ああ言われたらこう返すっていうのが決まってるから、すごいなって思う。一時期、技を盗もうとしたけど、盗むと滑る、間違いなく滑る。全然おもんなかった。(笑)

料理とかお酒の説明したり、人を使うとかはできたけど、お客さん笑かすのだけは難しかった。今でも接客していて難しいと思うもん。

──そうなんですね、そんな葛藤もあったんですね。

あの頃、裏ではよく怒られていたよ。本来、店長っていうのは野球とかサッカーの監督みたいなもんで、一箇所にとどまって指示出してスタッフを動かすことをせなあかんのやけど、どうしても俺は動いてしまってた。

昔働いてたメキシコ料理店の店長がバイトに対してもフレンドリーで楽しくやっているのがあったから、店長になったらそういう風になりたいっていうのがあったのかも。店長だからって偉そうに上から指示だけするのは俺には合ってないと思う。やっぱり自分も楽しみたいし、キッチンにも色々ゆうてまうタイプだったと思う。

──でも、よく素直にホールへの転換を受け入れましたね。

それは、高1の部活の恩師の影響もあるかもしれんな。その恩師は俺をキャッチャーにしたかったけど、俺はカッコつけたがりやから花形のピッチャーが良かったのよ。その恩師は高2になる時に移動になったから、担当の先生が変わった時に自己アピールをしてキャッチャーじゃないポジションにつかせてもらったけど、今考えるとそのままキャッチャーやってたらプロ野球選手になってたんじゃないかなって自分で思ってる。

野球のいろんな知識が入ってきた今思えば、キャッチャーって野球では重要なポジションってわかるから、恩師の先生はちゃんと俺のこと見抜いてたんやろなって思う。そういう経験もあってか上の人の意見をちゃんと聞くようになってるのかな。

強がってカッコつけてた30代、成長するきっかけをくれた10か条。

──私はまさか春高さんが飲食の現場から離れるとは思っていなかったです。また現場に戻りたいと思わないですか?

どうやろな〜、戻りたいとは思わないけど、俺がやれる飲食をやりたいとは思ってる。実は現場離れる時は、次はキッチンカーをやりたいと思っていたんよ。だけど、会長に引き止められ、今のワインの小売店に入った。元々ワインには興味あったし勉強もしてみたかったのもあるかな、あとは会長に恩義を感じてるから、会長の言うことに従ってみようって思ったのかも。

──会長への恩義?

俺が30代のころ会長からもらった“会長の十か条”というのがあって、それが人生で一番衝撃を受けたね。言葉1つ1つが響いて、自分を見透かされているようで、俺のために書いたんちゃうかって思うくら衝撃的やった。当時の俺はカッコつけてたし、自分を良く見せようとして知ったかぶりばっかしてたけど、十か条もらって目が覚めた。やっぱり偉い人はこういうの持ってんねんな、すごいなって思って、こういうのを発せられる人間になりたいなって思ったし、思い続けてる。

会長は「この言葉を全部自分の言葉として発すれば、それはもう自分のものやから。でも自分が納得して理解してやらんと、自分の言葉にはならんよ」て言っていたのが印象的やった。だからこの十か条は俺の心のバイブル。この言葉をもらって、俺は会長についていこうって思った。

あと、当時の上司にも感謝している。サービス業にまつわる本を教えてくれたりして、サービスに対して目覚めさせてくれて俺の力を引き上げてくれた。それまでは、まあまあわかってたつもりだけど、やっぱり井の中の蛙やったと思う。


〉後半に続く
年齢も経験も重ねていく春高さんがこれからやりたいことについてお話しいただきました。



春高勇次
1970年生まれ 大分県出身。
小さい頃はプロ野球選手に憧れるも、大学浪人生活時代から飲食の楽しさを知り、大学卒業後飲食業界へ。現在は東大阪でワイン小売店に携わりつつ商店街の活性にも奮闘する。 最近は愛犬ニーナとの戯れが楽しみ。

Twitter @motonashiya


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