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泣いて、与えてもらって、転んでも立ち上がってを繰り返してきたはずなのに。①

赤ちゃんの頃に沢山経験してきたはずなのに、大人になるとすっかりさっぱり忘れちゃっている大切なことがあるよな、というお話です。

こんばんは。にゃんちーです。
星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。

占星術的に牡羊座シーズンなので、それにかこつけて、という訳ではないのですが、人間の成長と赤ちゃんの頃の話です。

人間の産声は泣き声、それを祝福されて産まれてくる。

赤ちゃんが母体から切り離された、つまり産まれた時、最初にする行為が産声をあげることですよね。産声どころか、しばらくの間、赤ちゃんは泣くことしかできません。
赤ちゃんは、何よりも先に「泣く」という行為をするんです。泣くという行為は彼ら赤ちゃんにとって、感情表現というよりも、「私、ここに居るの」とか「お腹すいた!」とか意思表示に近いだろうと思います。

産まれた時に、まず、産声=泣き声の確認をするのは、赤ちゃんの呼吸を確認するため。
だから産声が上がると「おめでとう!無事に産まれましたよ!」と言われる。
いろんな事情があるかもしれないけれど、ほとんどの場合、産声=泣き声と共に、祝福されるのだ。

それなのに、大人になるとどうして、忘れてしまうのだろう。
泣いても良いってことを。
泣くことを、意思表示することを、祝福されてきたはずなのに。

泣くことを祝福されるというのは、言い換えれば、泣くことを許されているということかもしれない。

いやはやしかし、大人になるまでに「男の子なんだから、泣かないの!」とか「いつまで泣いているの!」とか言われて、泣くことを我慢するようになっていく。
泣いてはダメなんだ、と覚えていく。
許されていたはずなのに、禁じられていく。

或いは、泣くという行為が完全に感情表現へと移行するのかもしれない。
悲しいから泣く。
嬉しすぎて、感極まって泣く。
これはもしかすると、理由がないと泣いてはいけないということなのかもしれない。

なんて不便なんだ、大人って!

でも、本当にそうなのかな?
他の行為で考えてみよう。

笑うのに、理由、いる?
理由がないのに笑っていたら、気持ち悪い?
(笑い方にもよるだろうけど…)
ニコニコ笑ってる他人の姿を見たとして、「なんか知らないけど、ご機嫌なんだなー」とか「なんか良いことあったのかな」とか、勝手に想像する程度なんじゃなかろうか。

なんなら、つられて笑顔になるって言うよね。
何それ、ハッピーの連鎖じゃん!
わけもなくニコニコしているのかもしれないのにね。

だとするなら、わけもなく泣いたって良いのでは。
そもそも、泣きたいなら泣けば良い。
赤ちゃんの頃は、みんなそうしていたはずなんだから。

泣けば、誰かに心配をかけるかもしれない。
それは相手が「勝手に」心配しているだけ。
或いは、相手があなたを大事に思っているだけ。
それだけのことなのだと思う。

泣くのにとかく誰の許可も要らない。
笑うのに誰の許可も要らないように。

そうやって泣くことを我慢するから、亀裂が入るほどカピカピに乾いてしまうんじゃないのかな、心が。

泣かないことは、強いわけじゃない。
泣くのを我慢するのが、偉いわけじゃない。

自分のために泣けるのは、自分を大切にしている証拠なのかもしれない。
或いは、自分の弱さを受け入れたという、本当の強さを持っている証拠なのかもしれない。

誰かのために泣けるのは、他人へ愛と優しさを持っている証拠なのかもしれない。

留まった水は腐る。
それなら体内の水分を、上からか下からか、出すほかないだろう。

涙は心の防腐剤!
泣くのは心の浄化作業。

そう考えたら、泣いている自分も許せるのだろうか。
泣いたって良いと思えるのだろうか。

しまった…
思いの外、長文になってしまった。
タイトルの「泣いて」の部分しか書けていない!3本仕立てになりそう。

得意の尻切れとんぼですが、今日はここまで。
したらばまたにゃーん。

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