空路をめぐる戦前の日米-親善と競争
令和の御世。天皇陛下の即位後初めての国賓としてアメリカのトランプ大統領が招かれた。
筆者としては様々な関心を持ったが、宮中晩餐会での天皇陛下のお言葉があったが、聞いた瞬間、非常に驚いたひとことがある。
ところが、チャールズ・リンドバーグは戦前の日米関係でのキーマンであったことをこの時にメディアは全く報道しなかった。当時の背景を自分の「歴史」とも絡め、昭和初期の日米関係の雰囲気を回顧してみよう。
チャールズ・リンドバーグは1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて米国での空の英雄になる。第1次世界大戦後に荒廃し疲弊した欧州に新興国アメリカの若者が空からやって来たことは、世界の覇権の交代を印象付ける出来事だった。欧州では表で歓迎しながらも裏では冷たい目線もあった。
映画「翼よ! あれが巴里の灯だ」(The Spirit of St. Louis)にもなっている。
欧州に飽き足らず、4年後の1931年(昭和6年)にはパンアメリカン航空から依頼された北太平洋航路調査のためロッキードシリウス水上機で北太平洋横断飛行を行い成功。これが冒頭の天皇陛下のおことばの飛行機なのだ。
ニューヨークからカナダ、アラスカを経て、千島列島に到達。北海道を経て霞ケ浦に到着している(トップ画像参照)。霞ケ浦は海軍航空隊の飛行場が1921年に開場し日本の海軍航空の先駆けでもあった。この出迎えには杉山元陸軍次官(終戦時は本土決戦の第1総軍司令官で終戦後自決)と小泉又次郎逓信相(小泉首相の祖父)も出席している。
リンドバーグ来日の昭和6年当時は日米関係の悪化は誰一人想像すらしてない雰囲気での歓迎だった。
リンドバーグだけでなく昭和9年のベーブルースの日米野球での来日も同様の大歓迎だった日米関係の雰囲気も忘れてはなるまい。(拙稿参照)
いわばリンドバーグは戦前における日米親善のシンボルの一つでもある。
しかし、一方でこの北太平洋の航路調査の情報が大戦時に米軍側の資料として役立っていることは言うまでもない。
後に珠湾攻撃に踏み切った聯合艦隊司令長官の山本五十六はリンドバーグ来日当時、海軍航空本部技術部長だった。ここで、航空主兵を強力に推進すると同時に、未熟だった日本海軍航空機の発展に尽力している。リンドバーグの来日をどんな思いで観ていたのだろう。
この出迎えの土浦海軍航空隊はその後、海軍飛行予科練習生(予科練)の拠点となり、その多くは戦死した。筆者の大叔父(祖母の弟)も学業を中断し海軍予備学生となった。そして、この土浦海軍航空隊を後にし、鹿児島県奄美大島古仁屋基地に配属。水上偵察機で出撃し敵機と交戦。被弾し戦死している。土浦でのリンドバーグ大歓迎から14年後のことだった。
そして、日本の誇るゼロ戦について触れないわけにもいかない。終戦直後から70年を経て今なお飛行できる機体がただ1機のみ存在する。2017年に大阪でも飛んでいる。
この現存機体は米軍が鹵獲し、米国本土に持ち帰ったものだ。これを整備して米軍のテスト機関にて飛行試験を実施することになった。
その最初のテストパイロットは誰であろう、チャールズ・リンドバーグなのだ。
一方で、日本であまり知られていないが、リンドバーグは米国では反戦論者として知られている。欧州で第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。
1941年1月23日には米国連邦議会で演説もしている。戦前のアメリカでは空の英雄だっただけに、当時は非常にインパクトがある反戦論でもあった。
しかし、ここでなぜリンドバーグなのか。
トランプの外交理念(と言えるかは別として)である「孤立主義」「アメリカファースト」にリンドバーグの反戦論が重なって映るのだ。議論の妥当性はともかくとして、識者が何人か指摘している。
園田耕司 朝日新聞ワシントン特派員
斎藤 彰 (元読売新聞アメリカ総局長)
放送大学 高橋和夫教授
ここまで見ていくと、天皇陛下の宮中晩餐会のお言葉でリンドバーグをもちだすのはチビッ子時代のほのぼのとした思い出話とは到底言い難い。
政治的には相当にきわどい話なのだ。
一方で当時の日本も、このリンドバーグの偉業に刺激を受けた。歓迎しつつも対抗心を燃やし、航空路への挑戦を進めていった。その英雄が「日本のリンドバーグ」こと飯沼正明だ。
長野県出身で松本中学(現松本深志高校)卒業後、所沢陸軍飛行学校に学び、朝日新聞航空部に入社。戦前の京城(ソウル)や北京など航空便を担当していた。
1937年(昭和12年)4月に英国王室戴冠式奉祝を兼ねて、塚越機関士とともに朝日新聞社の「神風号」に搭乗し、立川飛行場から台北、ヴィエンチャン、カルカッタ、カラチ、バスラ、バグダッド、アテネ、ローマ、パリなどを中継し、ロンドンに到着。15357kmの距離を94時間17分56秒で飛行し、これは当時の世界新記録となっている。
機体は陸軍に九七式指令部偵察機として制式採用されるキ-15の試作2号機を、朝日新聞社が譲り受けたのがこの神風号でもあった。これは、米国や欧州から見ると競争相手そのものであり、挑戦者と映ったのは言うまでもないだろう。ちょうどこのころから、日米関係も悪化し始めてもいた。
また、当時の朝日新聞のドヤ顔が目にに浮かぶようだ。先年のプラモデルを復元した記事でも「朝日新聞」が強調されている。
その後、昭和15年に朝日新聞が東京-NYの親善飛行を企画するも、日米関係の悪化で中止となる。そんな日米関係の中、飯沼はサイゴン(現在のベトナムホーチミン市)・プノンペン(カンボジア)間での軍用連絡を担当し、開戦の報はサイゴンの飛行場で知る。
そして開戦3日後の12月11日プノンペンの飛行場で友軍機の事故に巻き込まれ殉職。当時、日本では空の英雄の「名誉の戦死」とされた。郷里の長野県安曇野市に記念館がある。
なお、昭和12年の飯沼正明の大事業に感銘を受けたのだろうか、筆者の祖父は昭和12年に生まれた息子(筆者の伯父)の名前に「正明」と名付けている。世界記録に心躍らせた当時の庶民。熱狂や興奮ぶりの一端でもあるが、戦後は飯沼正明は突如として、全く語られなくなる。
そして、占領期から米国は技術力を含め日本の航空力を畏れた。現在でも航空機産業は貧弱なままだ。貧弱なものにさせているとも言える。
そして、日本のこの「空の英雄」は忘れられた。忘れさせられたと言ってもいいだろう。飯沼正明は事故死が「戦死」になったが、戦後になって再度「抹殺」されたとも言える悲劇の英雄なのだ。
その後の1970年(昭和45年)にリンドバーグも大歓迎から戦争を挟んで39年ぶりの来日。日本の空の英雄は忘れられたまま、10歳の皇孫殿下はアメリカの空の英雄に「水上飛行機シリウス号の操縦席に乗せていただいた」。
陛下の晩餐会のさりげない一言の背景には、このような日米関係史がある。なお、宮内庁による注釈は以下のみだった。