だから、大場ななには二刀流が似合う。
「少女☆歌劇レヴュースタァライト」に登場する武器は実に多種多彩だ。
華恋は洋刀、ひかりは短剣、まひるは棍棒、クロディーヌはバスタードソード、真矢はレイピア、双葉はハルバード、香子は薙刀、純那は弓。
ザッと書き出してみると一本の格ゲーが作れそうな位にその種類は豊富である。実際に劇中内のオーディションにおいてはそのバリエーションからなる戦術の違いがレヴューに華を添えていた。
単に歌って踊って奪い合うだけなら全員が全員同じ武器を持てばいい。例えば真矢のレイピアは決闘に用いられた剣なのでより相応しいだろう。
舞台少女の武器というのは自分の生き写し。言わば分身のようなものではないかと私は思っている。
香子の薙刀が一番分かりやすいかもしれない。
薙刀というのは日本古来の武器であり、他のオーディション参加者のそれとは明らかに一線を画している。これは香子が日本舞踊に限らず華道、香道、書道と日本の芸道に精通している事から薙刀が武器として選定されたと解釈している。
他のキャラクターにもそれが当てはまり、それぞれが持つ武器には何かしらの意味が込められている。
ところで誰か一人忘れていないだろうか。
そう、大場ななである。
ななの武器は長さが大小異なる二本の刀であり、それを両手に持つ二刀流の構えを取っている。
この二本の刀は各々に名前があり、長刀は「輪」短刀は「舞」。その二つの文字をそろえると「輪舞」となる。ロンド・ロンド・ロンド……わかります。
TVシリーズを観劇した人間なら分かることだが、ななのキャラクター性を象徴した武器となっているのである。
なぜななだけが武器を二本持っているのか?
99期生主席たる天堂真矢に実力者であると目される「演技」の才。そして脚本を書く能力に加え、舞台を裏方としても創造できる「舞台を作る側」としての才を併せ持つが故の二刀流なのだ。
大場なな……The Big Banana……「実力者」たるが故に。
先に書いた通り舞台少女の武器というのはその持ち主の生き写しであると考えている。
wi(l)d-screen baroque
そんなことをふと、考えながらもう何度目かはわかりませんが劇場版を観劇していた際に色々考えることがあった。ここからが本題でそれを文章に残しておきたかった。
なぜ、「皆殺しのレヴュー」において大場ななは最初から二本の刀を持っていなかったのだろうか?
TVシリーズ8話においても最初は長刀だけを構えていたのでその限りではないが「皆殺し」に関しては最初、手にしていた短刀で仲間たちに斬りかかり、後に遅れて並走してきた電車が長刀を運んでくるという展開になった。
個人的にはななの刀というのは長い方が「役者」としての大場なな、短い方が「制作側」としての大場ななの分身であるとイメージしている。
地下鉄を変形させ、照明、音響装置を(キリンの手助けもあっただろうけど)一人で創造する才を持つのは「制作者側」としての大場なな。だからこそ最初は短刀を持っていたのだろう。
では長刀はどこへ行っていたのだろう?
本当にここからはあくまで個人的なイメージというか、感想あるいは妄想の類なので真に受けてしまうとダメなので注意です。
新国立の見学に向かうまでは一緒の電車に乗っていたはずなのに、いつの間にか華恋とななだけになっていたあの車両。昔を懐かしむように、どこか悲しげな表情を浮かべるななと困惑気味の華恋。そして辿りついた砂漠の駅で降りたななは華恋だけを乗せた電車を見送り、そして呟く。
「私も帰らなくちゃ」と。
このときのななは役者としての大場ななであり、舞台を作る側の人間ではなく、役者として仲間を……華恋を再び舞台に立たせたかったんだなって解釈している。
だから帰ってきたんですよ。長い方の刀……役者としての「大場なな」が
「皆殺し」の殺陣において星を弾く際には長刀を用いており、それは役者として仲間に向き合いたかったのだと解釈している。
しかし例外として大学に進学するとか言い出す星見に関しては一瞥もくれずに短刀で弾いている。別にお前なんてこれでいいでしょ。みたいな感じで。照明を当てることもなく、あたかも道端に落ちている空き缶を蹴るように。
そもそもこの「皆殺し」の舞台は移動する電車の上で複数人が入り乱れる混戦状態になる構図で、弓矢を構造物に放ち、それを跳ね返させて相手を射抜いたり、舞台装置を上手く使うこと相手をかく乱させるトリッキーな技法を使う純那からすれば非常に戦いにくい場所になる。
純那の戦法はきっと手に取るようにわかっているはずなので、その上でこういった舞台を用意するということは最初から純那には何も期待してなかったのでしょう。
とはいえ、二刀流の構えを純那の前で自ら崩す場面があります。
それは純那とケリを付ける「狩りのレヴュー」において。
舞台を降りて座学で星を目指そうとする純那は舞台少女としては死んでるも同然なので切腹を促す流れ。あの時に純那に差し出したのは自分の短刀……。
そう、舞台を作る側とのしての象徴を。
あの時のななは舞台の作り手としての道を捨て、役者として舞台の上で生きていくことを決めてたのではないのかと思う。
だから、いつでも過去を振り返ることができるスマホのカメラで純那を撮るのではなく、その場で現像して捨てることもできるチェキを使い、これで自害しろともういらなくなった短刀を差し出す。
もう、純那も裏方として舞台を支える役目もどうでもいいから。
けれど、あのまま道を進んだとしてもその先は行き止まりになっているのでその選択は不正解なんですよね。
そして短刀を手にした純那はななに立ち向かい、舞台を変えるほどのキラめきを見せる。「舞台を作る側」としての大場ななの刀を使って……。
役者としての才、そして舞台を作れる才も併せ持つからこその二刀流。
だからこそ、大場ななには二刀流がふさわしい。
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