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映画「八犬伝」を観てきた🐶

10月25日金曜日。
公開初日の「八犬伝」を観てきた🐶


「里見八犬伝」についても、
そう言えばそんなタイトルの小説があったな🙄、
ぐらいの知識しかなくて、


歴史や文学に明るくないわたしだが、
その予告を観た時から、
観に行こうと決めていた映画のひとつが、
この「八犬伝」だった。


✳️ここから、ネタバレを含みます🙇

「八犬伝」の作者は、滝沢馬琴。

馬琴が作った小説「八犬伝」の中で生きる、
登場人物が織り成す「虚」、
いわゆる「フィクション(虚構)」の世界と、

馬琴がその友人である葛飾北斎や、
自分の家族たちと生きる「実」、
つまり「ノンフィクション(実世界)」の世界とを、
行ったり来たりすることで、
物語は展開していく。

28年もの歳月をかけて、
日の目を見た「八犬伝」の裏側に、
こんな物語があったとは。


最後に目が見えなくなった、
滝沢馬琴ひとりの力では、
「八犬伝」の終盤は、
おそらく完成しえなかった。


そんな運命をたどるはずの小説が、
最後は、
こんな背景で紡がれ、
後世にのこされていたなんて。

これはひとつの「家族愛」の物語だ。


100人の人間がいれば、
100通りの人生のストーリーがある。


100冊の小説があれば、
その裏側に、
100通りの人生のストーリーが
少なからず反映されている。


それを知らずして、
ひとつの小説に向き合うのと、
ストーリーを知った上で、
向き合うのとでは、
断然、深みが違って来るだろう。


この世に生を受けた人はやがて、
土に還っていく。

だが、
誰かがのこした小説は、
消えていくものも星の数ほどあるだろうが、


人々をひきつける魅力があり、
読み継がれていくものは、
何十年や何百年の時を経て、
後世の人々に愛され、
色褪せないまま、
また次の世代へと引き継がれていく。


「八犬伝」も、
引き継がれた小説のひとつだったのだ。


わたしもいつか、
わたしが「生きた証」として、
後世に、
何かひとつでものこせるだろうか。


「八犬伝」は、
そんなことをふと考えさせられるような、
そんな映画だった。


「きのう、何食べた?」で、
美容師のケンジを演じていた、
内野聖陽さんが、
渋めの葛飾北斎を演じている。


全くカッコつけることなく、
庶民的な風貌で、
ふらっと主人公である馬琴のもとを訪れる。
いい意味で、力が抜けている。

だが時には、要所要所で、
主人公へ響く、大事な言葉をのこしていく。

誰にでも訪れる、
人生のターニングポイント。

「ここで背中を押してほしい」、
「ここで前へ進むためのアドバイスがほしい」
そう思っている時に、
的確に、
その状況を判断して、
道標を示してくれる人々の存在は重要だ。


もしかしたら、
滝沢馬琴にとっての、
そう言う存在が、
葛飾北斎だったのかも知れない。

そして、北斎は、
ありあまる才能を、
全くひけらかすことなく、
絶妙な存在感、立ち位置で、
主人公を支えていく。

飄々としていて、
かなりカッコいい。


この映画では、
滝沢馬琴が主人公なのだが、
葛飾北斎は、
もうひとりの主人公と言っていいだろう。

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