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ICUC#018(篭って週間#012)2020.6.14【いい集まりとは果たして何なのか?フラジャイルの魅力】

今週も元気に知的好奇心のアップデート【 ICUC 知的好奇心向上委員会】に参加したので、復習用の参加メモを作成しています。

今日の推薦図書
『フラジャイル 弱さからの出発』松岡正剛(ちくま学芸文庫)

動画 (ICUC先行公開後に一般公開。)
ICUC#12「いい集まりとは果たして何なのか?フラジャイルの魅力」

おはようございます。
ICUC知的好奇心向上委員会、6月14日版の動画です。
#012”いい集まりとは何か?フラジャイルの魅力”
授業、会議、オンラインサロン、人の集まりはいろいろありますが、果たしていい集まりとは何なのでしょうか?
そんなことを漠然と話しています。
よかったらゆるりとご覧ください!

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note

ICUC主宰:角田陽一郎webサイト

mireva channel

動画の内容
・散髪とカラーリング
・反響がダイレクトに作り手に届く
・レスポンシビリティ
・集まりってものはちゃんとしてない
・玉と石とサビシイとウザイ
・今日の推薦図書
私のメモという名の感想

散髪とカラー

伸ばせるだけ伸ばしてみようと思った髪だけど、梅雨で鬱陶しいし散髪。本日6月14日夜に現在ピンクの髪になっている”はあちゅう”さんとのイベントがあり、ピンクに負けじと紫にして一週間。冒険心のために、いつまでフサフサか分からない若くない髪への負担を考慮し、脱色を一回にしたところそれほど紫色にならず、遊び方も中途半端。マッシュルームカットっぽくこの辺を可愛くしましょうと言う美容師さんのプレゼンに抗うパワーもなくおまかせで。
子供のころ、梅雨や台風があるからお米ができると聞き、それはそれで必要なんだと子供心に気になったことを覚えている。

反響がダイレクトに作り手に届く

話すことを決めずに話し始める無謀。渋谷のラジオでもそうで、生放送だから話し続けなけなきゃと話してた。これは録画だから話す前に考えていて、考えているけど考えたことを話してない。じゃあ考えずに話てもいいかと思いつつ、果たしてそれで人が見てくれるのか?ということもある。
前々回「数の論理」の話をしたとき、それほど数はいらないと言った。見てもらえた方がいいけど。

では見てくれないのになぜやるのか?
心の底から見てくれる人だけ見てくれれば良いという思いと、YouTubeは数が多いほど収入になるから視聴数が多い方がいいということ。多くの人に見てもらいたいというのは、究極的には多くの人に認められたいということだろうけど、その分だけ収入になることも大事なのはわかる。
ただ数の論理としては、自分が生きて行けるだけの数を獲得できていれば良いと考える。
そう考えるとこのYouTubeは全然数が足りてない。だから数を獲得するための施策が要ると思うけど、どうしても僕の中での違和感、嫌悪感になっている。オンラインサロンや自己啓発本のバズり指南は本当に必要か?改めて本当に必要なのか?と思う。

今週はまた立って話してるのは、その方が声が大きいから。理由は過去の収録分を見返すと声が小さい時があり、それはコンテンツとしてどうかと言えばダメで、今までテレビの仕事でも避けてきた。見てもらうために。
でもこれは仕事じゃないし、でも聞いてくれている人には申し訳ない。それはごめんなさいで済むけども、声が小さいとのコメントはあった。ただ「声が小さい」とだけ言われる、その言い方。なんでこんなこと言われなきゃいけないんだろうかと思う。
その気持ち、プロなら我慢するだろう。果たして我慢することがいいのか?と考えると、反論しちゃダメなのか?というTwitterのクソリプ論に繋がると思う。

例えば”良くも悪くも”声が小さいというような、見た人が不快に感じるコンテンツがあり、ネットがない時代ならその声は製作者には届かなかった。つまり今までは製作者は気にせず好きなように製作できていた、”良くも悪くも”。それがネットの登場で”良くも悪くも”製作者に意見がダイレクトに届くようになった。人類の歴史の中で、反響がダイレクトに作り手に届くことはなかった。それは良い方にも行くし、悪い方にもちょっと行くと思う。

レスポンシビリティ

今まではモノを作って世に出すという恥ずかしいことを乗り越えるのに、リアクションを聞かないという逃げに救われていた気がする。某有名アイドルはネットは一切見ないと言っていたけど、リアクションを気にしてたらやっていけない。そういう職業の人は、有名になるということでその分だけのレスポンシビリティ(責任)を持ってしまう。そのレスポンシビリティを持とうと思うなら、その分だけの責任感を先に持つ必要があると思う。

自分はつくづく嫌だと思う。そういうものから逃げて生きられないか?と思い、やってみようと思う。例えば、声が小さいと丁寧に言ってくれれば丁寧に返し、ぞんざいに言われたならぞんざいに返すインタラクティブ性を僕は持ってしまう。それで見ないなら見ないでくれていい。

かと言ってあらゆる他者を除外して生きていくことは不可能だから、丁寧に人間関係を構築できる人が、僕の作ったもなら見るよ、読むよ、一緒に仕事するよと思ってくれる人が、一定数居ないと生きていけないのだと痛感する。
逆にその一定数以外の人は関係ないと言い切れるほどには強くないから、僕を良く思えないなら、わざわざそれを言ってくれなくていいのに。なぜ声が小さいと言ったのだろう?言うことで認められたいというものでもないと思う。単純に声が小さいなと思ったから言ったんだろうと思うから、それはホントごめんなさい。だけど、やっぱりあんたに言われたくねぇよとも思ってしまう。

本当はそういうことは大事にしなくちゃいけないと分かったうえで。分かったうえで、果たしてちゃんとしてれば良いのか?とも思う。

集まりってものはちゃんとしてない

ちゃんとした集まりって何なんだろう?大学、会社、オンランサロン、一定の空間、時間の共有がちゃんとしてるとは?それはちゃんとした進行、MCがいるということだと考える。しかし実際、ほとんどの集まりはちゃんとしてない=進行してない。段取りの悪い集まりなど死ぬほどあって、意見を求められえても沈黙で、かといって一人発言すると私もと続いてしまい、それが良い議論だったとしても、今度は終了時間が気になって仕方がない。すると意見を求められてからの沈黙の時間はなんだったのか?と。

いい年の僕はそういうことを考えて、最初に発言してしまう。集まりの時間の最適化として、大人として良い集まりにしようと努力してしまう。
これが大学の授業とすると、社会人の自分が発言するのはあまりいいことではないと思う。結果的に社会人学生の発言により議論が発展する、議論の問いが立つなら、そういったことを設計したうえで話した方が良い。
ならば、ベテラン揃いなら良い集まりか?
場のルールやノウハウが分からない人で話すと、議題が滑っていったり、時間のロスが多い。ところがベテラン同士になると慣れによる遅刻、阿吽の呼吸で出来てる感じ、高度な話でもなく、ダラダラ、なあなあで緊張感がなくなる。

そすると、新人の集まりもベテランの集まりもちゃんとしてない。結論として、集まりってものはちゃんとしてない。
じゃあなぜ人は集まって人の話を聞くのか?集まりでなく個人でその情報にアクセスして経験することに価値があるのでは?そもそもそれが良いか悪いかと考えることに意味がないのか?
僕は自由大学での発展途上人学やこのICUCも集まりで、自分で営業して集まっていて、何のために?と思うこともある。楽しくてやってるならちょっとだけわかる。なら楽しくないのに集まってるのはなぜ?
人間って集まると楽しいのだろうか?

玉と石とサビシイとウザイ

人間ってなぜ群れるんだろうと、コロナで群れない中で考える。ずっとリモートでいいという声を聞くと、誰しも人間関係に疲れていたんだなと思う。人とのコミュニケーションとは少ないと寂しい、多いとうざい。その感覚が人を集め、その中で良い集まりにしようと思うのだろうか。

例えば大学の面白い講義とは教授とのコミュニケーションが面白いということもあり、講義の中身が面白いということもあり、面白いにも種類があるとわかる。面白いにも種類があり、その種類みたいなものが玉石混合であると考えると、良い集まりとは何なのかという議論はどうでもよくて、僕の結論としては、玉も石も経験することが大事ということになる。

反面教師というほど反面でなく、良い教育を受けないことということも良い教育だと思う。
文化を知るというこを教育に入れようとするけど、文化は教育で学んだこと以外で知ることが文化で、カウンターカウチャーが文化であり、カウンターカルチャーをメインカルチャーに入れると文化が弱くなる。
ダメな会議を良くしようとするけど、ダメな会議という経験が次のいい会議に繋がる。
強い、素晴らしい、かっこいい、売れる、みたいなものだけが良いのではなく、うだうだしてれば良いわけではなく、うだうだしないよう頑張ったプロセスが大事だと思う。
この動画が認知されようがされまいが知ったこっちゃないといいながら、認知されるよに努力することは大事だということ。
どんな手を使っても認知されようとするのでもなく…

今日の推薦図書

『フラジャイル 弱さからの出発』松岡正剛(ちくま学芸文庫)
割物注意の荷物にフラジャイルって貼ったりする。弱さって意味だと思う。

なぜ、弱さは強さよりも深いのか?なぜ、われわれは脆くはかないものにこそ惹かれるのか?“「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである”

と、正剛さんは語っている。
そんなに簡単な本ではないけど、若い時に読み、バズれば良いのか?人気になれば良いのか?勝てば良いのか?ってことに抗おうと思ったきっかけが正剛さんのこの本をだと思うし、ムーンライダーズを聞いていたからかとも言えるし。
テレビやサラリーマンは勝ち続けろと要求されてて、それに違和感を感じていてフラジャイルという概念が僕にとって大事なんだなと思う。
ロックバンド「ガガガSP」にも弱男て歌がある。

人間の弱さをどう認めるかというのは大事だと昔から思っているけど、弱い方がどう立ち上がるというと強さになるけど、立ち上がるというよりただ立つ、強い方が助けよう、弱いから助けてではなく、弱いから良いをどう表明するかが大事。

だから、まあ、表明し続けようかな。
僕は強いことが面白くないというか、上品じゃないなって思うから。
ストロングよりフラジャイルに興味がある。それを追っていきたい。


私のメモ

髪の色から始まったからか白か黒かが頭に残るし、終始、右か左か、上か下か、それでもいいのか?それしかないのか?って話だったと思う。
髪の話なら、ふさふさとぺたんこ、艶々とギシギシ、湿度と乾燥、決める決めない。
YouTubeの話なら見る見ない、見られる見られない、多い少ない、愉快不愉快。
コミュニティの話なら、保存と排除、強い弱い、集まる広がる、ベテラン新人。

"良くも悪くも"は3回言ってるし、それは前々からおっしゃってる。ものを考えるという行為の基礎だと思う。人は感情的に良いか悪いかに行きがちだから。単純に良い悪いに行きがちな人への盾にもなる。分かった上で言っているんですよ、と。
制限という枠組みでそこが書ききれない、行間を読む力を試すゲームがTwitterなのかな。

上と下、右と左でもインタラクティブを起こす。
上下と左右だけで二方向の道が完成。さらに上から下へ行かずに右に行くことも可能とすると、上下左右という四極端だけで、12通りの道が存在する。
白と黒の間にには白1%黒99%〜白99%黒1%のグラデーションが存在して、それを白か黒か"良いか悪いか"に押し込められない。インタラクティブが目で見れたら、きっとグラデーションだと思う。

インタラクティブは因果応報、忘れがち。
(惜しい!五七五じゃなく七七五だ〜)
情報は上から下にしか落ちないと言った人がいた。学ぶことを疎かにするなという意味だけど、それだけじゃ不完全どころか半分以外だ。下が源流にもなり得る。源流の振りをした支流もある。
下流の情報など淀んで飲めぬと言うは易し、思うも易し、行うも易し。本質は上流にだけあるんじゃなくて、下流で発生してるかも。

ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)

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