ラブストーリーに興味がない人の為の『愛がなんだ』入門
独立系の低予算作品で、当初は全国72館で公開されましたが、20代、30代の女性を中心にSNSや口コミで評判を呼び、上映館が拡大されてロングランヒットとなった本作。原作は『八日目の蝉』、『紙の月』などで知られる角田光代さんの同名小説です。
「愛だの恋だの、どうだって良いよ!」とお考えの、そこのあなたにこそ観て欲しい、実存的な問いかけと言えば大袈裟に聞こえるかもしれませんが、恋愛を通して生きるとは何かを考えさせられる内容になっていると思います。
・『愛がなんだ』ってなんだ?
ざっくりしたあらすじを説明します。OLのテルコはマモルと出会って恋に落ちる。何もかも彼に身を捧げた結果、仕事が疎かになりクビになる始末。しかし、テルコはマモルの恋人ではなく...。
要するに、都合の良い女になってしまったヒロインが自分勝手なダメ男に振りまわされる話なのですが、何故、本作が観客に熱狂的な支持を得たのでしょうか?はっきり言って、僕は女性の気持ちが分からないので分析は出来ません。しかし本作には惹かれる物がありました。何度も観返す内に今では大好きな作品です。その魅力を普段、恋愛映画を観ない僕の様な人に向けて語っていきます。
・まずは僕の好物である映画の引用、元ネタの話から...
話の本筋に入る前に、数多く映画を観ない人からすれば、どうでも良い事かもしれませんが、僕は映画を観ていて監督が作品の中に込めた昔の作品の引用だったりオマージュを見つけると嬉しくなる質でして。
『愛がなんだ』の監督、今泉力哉さんがインタビューで「僕自身は過去の映画から影響を受けて、自分の映画を作ることへの否定もあるんです。映画からのみ映画を作っている人ってまだ多いから。とは言っても、結局はなんだかんだでオマージュは結構やっていますね。」と語っています。
今泉監督はTwitterで親切にも本作の引用元を書いてくれています。
山下敦弘監督『どんてん生活』、犬童一心監督『ジョゼと虎と魚たち』、井口奈己監督『人のセックスを笑うな』、トッド・ヘインズ監督『キャロル』、ソフィアコッポラ監督『SOMEWHERE』、黒沢清監督『CURE』。
その中で個人的にツボだったのはヴィンセント・ギャロ監督の『バッファロー'66』のオマージュ。『愛がなんだ』を観た人は主人公テルコのラップのシーンが印象に残ったと思います。日常からシームレスに非日常的な照明がほのかにテルコへ当たり(しかも1カットで)、片思いの相手であるマモルが恋い焦がれているスミレに対しての嫉妬から出た悪口を、ミニマルなトラックに乗せてラップをする素晴らしい演出は、『バッファロー'66』のボーリング場のシーンからのオマージュだそうです。
・原作との比較から見えてくるもの
角田光代さんの原作を読んで比較すると、映画にアダプテーションした際の細かいアレンジから、今泉監督が強調したテーマが浮かび上がってきました。それは「何かを好きになる」という事です。
まずは原作にあるテルコの重要な独白から、
(マモちゃんと会って、それまで単一色だった私の世界はきれいに二分した。「好きである」と「どうでもいい」とに。)
これは映画の場合、テルコがマモルに時間を割くあまり、会社をクビになった日に、初めて話しかけられた同僚の女性と、公園でランチを食べながら交わされる会話に脚色されています。その同僚は、そこまで人の事を好きになれるテルコの事が羨ましいと言います。そして自分は結婚する事が決まったと告げる彼女の表情は、どこか物憂げです。
ここで何となくテルコの「報われない恋愛」=「愚か」という単純な図式からは外れていきます。もちろん、彼女が茨の道を歩んでいる事には変わりないのですが。
この場面は恋愛の話だけではなく、別の「好き」な事、例えば映画だったり音楽や漫画、アイドルなどに置き換える事が出来ると思います。そう思える理由の一つは、テルコを演じた岸井ゆきのさんの持つ、真性の明るさによるところが大きいでしょう。一歩間違えるとただの恋愛体質でイタイ女性になってしまうキャラクターですが、純粋に「何か」を追い求めている様に見える解釈の幅が、岸井さんが演じる事によって生まれています。
もう一つ原作から加えられた映画のアレンジで、恋愛を超えたテーマが浮上するポイントは、ナカハラ君というキャラクターの変更点です。映画の彼は原作にない、カメラ小僧という特徴が付け加えられています。
ナカハラ君はテルコの友達の葉子に片思いをしており、テルコ同様、報われない恋愛を続けています。言わば、テルコの合わせ鏡の様なキャラクターなのですが、彼は終盤、報われない恋愛に耐えられなくなり、テルコとの片想い同盟から降りる事になります。
ここから映画オリジナルの、原作にはない展開なのですが、ナカハラ君は一念発起して、今まで撮りためていた写真の個展を開きます。僕はこの展開を観て、ある別の作品を連想しました。
・『(500)日のサマー』
主人公のトムが職場でサマーという女性と出会い、恋に落ちて失恋するまでを描いた映画なのですが、本作は冒頭にこの様なテロップが入ります。
「この物語はボーイ・ミーツ・ガールの物語である。しかし、これはラブストーリーではない。」
トムはサマーとの恋、そして失恋を通して成長し、本当になりたい自分を掴みます。トムの場合は建築家になる事ですが、『愛がなんだ』におけるナカハラ君が写真の個展を開く展開と重なります。
・好きの向こう側
小説も映画も終盤、テルコはある結論めいた独白をします。
(私を捉えて離さないものは、たぶん恋ではない。きっと愛でもないだろう。私の抱えている執着の正体が、いったいなんなのかわからない。けれどそんなことは、もうとっくにどうでもよくなっている。)
映画では、この独白の場面でテルコは鏡に向かって自分自身と会話をします。映画における鏡の中の自分と会話をする人は、所謂「基地の中に入れない人」である事が多い、というのは僕の偏見かもしれませんが(『タクシー・ドライバー』のトラヴィスとか)、テルコはマモルとの関係を継続させる為、最後にかなり突飛な選択をします。彼女の選択は間違っているかもしれません。狂気とも言えるでしょう。しかし、鏡の中の自分自身に語りかけるテルコの迷いがない表情は、清々しく、格好良くすらあります。混沌とした世の中を生きる中で、一種の羅針盤の様な存在がマモルなのかもしれません。
恋愛にハマる人、趣味に没頭する人、仕事に熱中する人、宗教にすがる人。それが例え褒められた事ではなく、間違った事だとしても、それが本人にとって生きる意味になり得るのだとすれば、誰も否定する事が出来ない。僕はそんな風にこの『愛がなんだ』を観て受け取ったのですが、皆さんはどう感じましたか?
観たら誰かと語り合わずにはいられない作品です。
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