兄弟
例えばの話だが、バナナで人を殴ることもノコギリで関節ひとつひとつ削ぎ落とすことも「暴力」という同じ名で呼ばれるわけで。
これはまさに暴力的なまとめ方と言えよう。
兄は私の2個上で、スペックが高い、女によくモテる、いけ好かない野郎である。
一方私は、低学歴で頭も弱く、へたれで気も回らないが、人当たりがよく、とてもいけ好く野郎である。
我々ふたりは等しく「中村家」とまとめられ、「兄弟」と括られる。
知人に私を紹介する機会があると、兄は決まって、
「これがウチの弟です」と誇らしげに言うのであるが、この「誇らしげ」というのは兄自身に向いているのであって、つまりはお兄ちゃんヅラをして悦に入っているのである。まったく憎らしい。
とは言っても、私は兄を憎んでいるわけではない。
ここで憎むべきは「言葉」である。
なぜならば、人を憎んでも際限がないからである。
「私」と「兄」を結びつけているのは「物理的な距離」や「生物学的な遺伝子の近似」ではなくて、同じ名前でひと括りにしようとするモノの見方、「言葉の力」だ。
「兄弟」だと思うから憎くなる。
「キンタマ2つぶら下げた1人の人間」だと思えばなんともない。
私たちの関係性を表す名前ごと変えてやればいいのだ。
例1)
私と兄は「兄弟」である。
⬇
私と兄は「キンタマ計4つぶら下げた2人の人間」である。
──────────────────────────────
それでは実践問題。
問1 : 次の文をキンタマ因数分解しなさい。
「玉袋 筋太郎は、日本のお笑い芸人。」