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【ショートショート】階段を降りる
玄関のドアから鍵を抜くと、私はもう一度ノブを回し、鍵が確かにかかっていることを確認した。確かにかかっている。これをやらないと、数歩進んだあとで鍵をしっかり締めたのかどうか気になってしまう。だんだんと不安――かけた気もするけれど、やっぱりかけてないのではないか、という曖昧な気持ち――が頭の中で膨らみ、結局不安が勝って戻ってしまうことになる。なんとも悲しい性分である。私はふわふわの黄色い鳥のマスコットがついた鍵をリュックの定位置に仕舞うと、マンションの二階から一階へと階段を降り始めた。
毎年この時期は長靴を履く羽目になることが多い。私は膝下まであるゴム長靴を履くのだが、あまり恰好がいいとはいえない。服装と合っていないせいもあるだろう。それに足の甲や、裏、指が固定されていて動きにくく感じるし、窮屈だ。単純に足のサイズに長靴が合っていないだけかもしれないのだが、とにかく歩きにくいのである。この日も私は、濡れて滑りやすくなった階段を一段一段、慎重に降りて行った。
慎重に降りるということは、普段よりもその場に目が留まる時間が多いということができるだろう。階段や廊下には色んなもの、子供が工作で作った家、傘、長ネギや長芋が入った段ボール、ショベルが無造作に、あるいは丁寧に置いてあり、様々な人が住んでいることを実感する。置いてあるものから住人の姿が想像できるようでもあるが、これは田舎に流れる油断に似た空気が、あるいはそうさせているのかもしれなかった。この部屋には老人が、あの部屋には夫婦と子供がおそらく二人。そんなことを考えながら降りていると、ペキッという音と共に、足から何かを踏んだような感覚が伝わってきた。他のことを考えはじめたら注意散漫になってしまう私の悪い癖が出ていたようだ。何か他の人の大切なものを踏んで壊してしまっていたらどうしよう、そんなことを考えながら恐る恐る足を上げると、そこにあったのは、首と体が離れたアブラゼミであった。
今は二月のはずだ。見間違いかもしれない、そう思い屈み込んで近くで見てみるが、まぎれもなくアブラゼミである。それも成虫だ。セミの抜け殻だったならここまでの衝撃を私は受けなかっただろう。夏の間に集めた抜け殻たちをどうしても捨てることができずに、親には内緒でこっそり引き出しに仕舞っておいたことが私にはあった。だからこの冬の時期に落ちていてもさもありなん、他の部屋に住んでいる小学生の仕業だろうと納得できるのだ。しかし私が踏んでしまったのは成虫のほうである。誰かがセミの標本を作っていたのか。それとも引き出しの中にセミを並べて飼育していたのか……。ともすると、私は誰かの大切なものを壊してしまったのかもしれなかった。
セミとの相性が悪い私は、足早にその場を後にした。急がないと仕事に遅れてしまう。私が帰って来る頃にはもういなくなっているだろうか。そうであってほしい。あのつるつるとした両目が、私のことを――首と体を離れさせた私を――恨めしそうに見ていた気がした。
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