【エッセイ】これでお別れ
日本でお別れの季節と言えば3月と決まっているらしい。
たしかに卒業、就職と人や物の移動がこの時期には多いようだ。初めての引っ越しともなれば大変で、人一人の移動にこれほどまでの荷物がついてくるのかと驚かされる。衣類から趣味の物、白物家電にテレビ。断捨離もこのタイミングで済ませようとすれば、エイヤッと案外簡単に終わるかもしれない、というのは幻想でまあ終わらない。
話しは戻って別れである。
私は別れを恐れている。なにも人と人の別れだけではない。私の周りのものたち。本や道具もそうだ。もう読まないし使わないが、手放そうとすると急にパアッと思い出が黄泉帰り、彼らは光はじめる。そんな彼らをそう簡単に手放すことができるだろうか。そうやって時間が浪費されていくことが実に恐ろしい。
それに別れは大概突然やってくる。心構えというものをしておきたいが、自発的な別れでなければ不可能だ。私の後ろを私に気づかれぬように、しとっ、しとっと別れは距離を詰めたり広げたりしているのである。しかも出会った数だけ別れがあるというからたまらない。私の身体の周りに数多の別れが居ると想像してみる。これほどまでに多くの別れに狙われたら私は窒息してしまうのではなかろうか。やはり恐ろしい。
先日、私が住んでいるアパートの給湯器が壊れた。
電源も入らないし、もちろんお湯の温度設定もできないからしばらくの間、水と混ぜてなんとか適温をさぐりさぐり使っていた。が、お湯が出てもすぐ冷水になってしまい、各所に連絡しいよいよ交換ということになった。それもそうである。なんせ製造年は2004年なのだ。前に住んでいた人も含めて20年も使われていたことになる。その間この風呂場でお湯を司っていた給湯器。当然劣化も進んでいるだろう。苦しみながらの長い期間の仕事を思うと、お湯を出した時のファンの唸り声もなんだか最後のひと踏ん張りのようで愛着がわいてくるではないか。
金曜日に交換の工事が入ることになった。この給湯器とはあと3日でお別れである。それまでは頑張ってくれ、と心の中で思いながらシャワーを浴びていると微かな声が聞こえてきた。シャワーを使っている最中は水音ではっきりとは聞こえず、外で誰かが遊んでいるのかな?という程度だ。だが何度も何度も同じことを言っているように聞こえる。
なんだろう。
私は蛇口をひねり、一旦シャワーを止めた。その私の耳に、
「給湯温度が変更できます給湯温度が変更できます」
と、少し早口になっている女性の電子音声が聞こえてきた。
さっきまで温かかったはずの肌に一気に鳥肌が立った。
1、2ヶ月も前に動かなくなった給湯器の電源が、設備会社の人が来て、工事の日程が決まったその日の夜に入ったのである。こんな偶然があるのだろうか。しかも今度は電源が切れない。切っても勝手について風呂場から「給湯温度が変更できます……」と聞こえてくる始末。
デジタルの時代にも付喪神は存在しているのだろうか。
さっきまで愛着をもって聞いていたファンの唸り声もこうなると「まだ死にたくない」という怨嗟の声に聞こえてくる。
そんな話を交換に来てくれた業者の方にしたところ、「ひぇぇ、おっかないですねぇ」と苦笑していた。現在2代目となった給湯器であるが、電子音声案内はなぜか初代と同じ声に聞こえるのである。そんなはずはないか。今日も電源を入れると給湯器は「給湯温度が変更できます」と伝えてくる。