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うつ病になって休職した話⑨(完)

■2023年、僕の人生は再び動き出した

23年夏頃に再会した大学時代からの友人と、約1年間の交際を経て結婚した。ずっと一緒に生きようと思える人ができたことで、僕の人生のすべてが変わった。コロナ禍の否応ない変化とは異なり、僕たちが選んだことで前に進んだという感覚が確かにある。

24年3月に僕は今の部署に異動になった。復職時に戻った部署で思うように稼働できないなかで、上司から異動の提案があった。新しい仕事はやりがいもあるし楽しい。会社には感謝するばかりだ。

春には妻(当時は彼女)と一緒に住み始め、夏には入籍した。変わるときは全てがあっという間だ。妻はこれまでの話は全て聞いてくれている。なんてありがたい存在なんだ。

失ってきたものもたくさんある。何かを選ぶとき、それは同時に何かを選ばないときでもある。僕は一個ずつ選びながら、少しずつでも自分が思い描く未来に向けて進んできた。その結果だけは誇りに思っていよう。過去の自分が報われるためにも。

■「平塚くんは大丈夫」

これは静か犬として僕のことをかわいがってくれた友達夫婦のお嫁さんがいつも言ってくれた言葉だ。たくさん話を聞いてくれている彼女が言うからこそ、この言葉は本当に思えた。

大切な人たちがくれた言葉はどんなときも、思い出すだけで魔法のように僕に力を与えた。言葉たちは道を切り拓くための剣にも、身を守るための盾にもなる。

復職からしばらく経って、昔の上司に電話してみたことがある。僕が新入社員のときにお世話になった人だ。僕にとっては人生初の上司であり、仕事についていちから教えてくれた先生でもある。仕事への真摯な姿勢は今でも僕の憧れだ。

「もし辞めちゃってたとしても、とにかく元気でいてほしい。私は君が大好きだから」と言ってくれた。そのうえで、僕がどんな道を選ぶとしても、休職した経験はきっと意味のあるものになると言う。「味のあるおじさんになれるよ!」と。

味のあるおじさん。その日から僕の頭のなかでは「アジオジ」と略され、新しい目標となった。

いつかおじさんになった僕が悩める若者に出会うこともあるだろう。そのときにどんなふうに声をかけてあげられるだろうか。きっと僕はこの数年間の経験を思い出すだろう。もしかしたら、アジオジとして何か力になれるかもしれない。

■救われたいと思っていないと

休職・復職の過程で、僕を救おうとしてくれた人は何人かいた。心配でちょこちょこ連絡をくれた人、気晴らしにと外に連れ出してくれた人、いつも話を聞いてくれた人。

本当にありがとう。

でも結局、他人がどれだけ手を尽くしてくれても、環境や自分自身を変えようとしない限り、僕が救われることはない。

友達夫婦の旦那さんがくれた「お前が本当に困っているとき、他の全てを投げ打ってでも力になりたい」という言葉は、きっと心の底から出たものだ。でもだからこそ、僕こそが自分を救わなくてはいけないと思えた。

「救われてほしい」と本気で思ってくれる人がいる時点で、すでに僕は救われていたんだ。

■言葉は僕にとって、生きた証しだ

この経験を文章にするのは本当に難しかった。書き始めたのは1年以上前で、なかなか筆が進まなかった。僕にとって重要な経験だったからこそ、当時と今の気持ちをできるだけ正確に表現したかった。

24年夏になって急速に書き進められるようになった。やっと乗り越えたと思えたからこそ、書き進めることができたんだろう。書けなかったのはきっと、自分の中で消化できてなかったからだ。

やり遂げることができてホッとしている。僕はどうしても、言葉にして残しかった。誰が読んでくれているかもわからないけど、この経験が少しでも意味のあるものだったと思えるように、、、。

生きる限り続く無数の経験。それらは、記録することで歴史となる。一方で、過去のことしか記録できないという側面もあり記録と歴史は表裏一体だ。歴史が記録であり、記録こそが歴史でもある。

頭のなかの思考そのものは残せない。人はいつか忘れてしまうし、必ず死んでしまうから。思考を人に与えることもできない。誰かに受け取ってもらうには、言葉や音楽、絵など形にする必要がある。何かを表現するというのは、思考に意味を持たせるための作業でもある。

たった一人でもいい。僕の言葉が誰かにちゃんと届いて、少しでもいいから何かの助けになってくれたら。そうしたら、僕の苦しかった経験は報われる。願わくば僕の言葉がいつか、誰かのお守りになってくれたら嬉しい。【終わり】

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