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海に浸かれば治る

──「海はね、体に溜まった悪い毒素を体の外に
出してくれるんだよ」

「いまアトピーが酷いけど、治るかも知れないよ」

「とにかく、ちょっとでも良くなるかも知れないから
痛いだろうけど…我慢して浸かりなさい」


小学校がお休みの日、私は母と祖母の3人で
祖母の家からほど近い浜辺へと車でやってきた。

あらかじめ、スクール水着を着たまま
着いてすぐに脱げるよう、自宅から準備していた。

真夏でもなかったから、足に水を掛けるだけでも
ひんやりと冷たかった。


少し慣れてきたので、波打ち際に私だけ座り込み
全身アトピーで生傷だらけの体に、その後に起きる
であろう痛みを想像しながら、おそるおそる
海水を手ですくい、すこーしずつ傷に掛け始めた。

ちゃんと海水を浴びられない私を見かね
仕方ないとばかりに母も近くに寄ってきて屈み

しっかり海水を全身に浴びるように
少しでも今より良くなるように

そんな想いが感じ取れる程、丁寧に両手ですくって
バシャバシャと私に掛け始めた。



当然、海水を掛けた所はその瞬間の痛みだけでなく
乾き始めても灼けるようなヒリヒリと傷にしみ
私は顔を歪ませ、肩を丸めながらそれに耐えていた。

祖母は黙って後ろの方で私達2人を見守っていた。


夕方になり、海からあがって3人で母の車へ向かい
私は水着のまま、車の後部座席に敷かれてあった
バスタオルの上に座った。

ビーチサンダルと水着で泳ぐでもなく、
ずーっと動かず、波打ち際に座ったまま
海水を浴びていたので、敷かれていたタオルが
とても温かく、ふわりとして心地よく感じた。

祖母の家の広々とした庭先でホースを伸ば
体に付いた砂やキラキラと日に当たって光る礫を
痛みに耐えつつ、表皮のないジュクジュクとした傷を
しっかりと洗い流した。




──翌日。

それまでの治るかもという期待や想いとは裏腹に
全身が熱を持ち、赤黒く腫れ始めた。

そして傷の部分には、白っぽく黄緑色の
おびただしい数の膿疱が全身にでき、
ブルーベリーの果実ほどの大きさの物がほとんど。

わかりやすく喩えるなら、
1㎝以上にもなる、はち切れんばかりのニキビが
おびただしい数、全身にできている状態。

首から下は熱を帯びて赤く腫れ、皮膚が突っ張り
上手く後ろにすら振り向くことが難しかった。


当時はネットも普及しておらず、医療情報すら
週刊誌の文言を鵜呑みにしていた90年代前半。

そもそも、ステロイド剤の副作用について
“使うと腎臓が小さくなる”等の、素人には
確かめようのない記事内容にすらも真に受け
それを避け、民間療法を探し回っていた矢先だった。

その時点、全く信用出来なかった病院も頼れず
最初、目にした時はショックと言うよりも
血の気がひいた感じだった。あまりの事に。

皮膚が突っ張るため自然と背中が丸くなり、
凸凹な状態の腕も完全に下ろしきれない…
まるで、ゴジラのようで。

海は、私を“バケモノ”に変えた。



それでも学校は週明けに始まり、規定の白い半袖と
半ズボンの体操着で登校することになった。

私は学校のみんなに見られたくなくて
触れられたくなくて、黙って席に座っていた。

やっぱり何人かが私の所にやって来て、

「それ、どうしたの?」

と声を掛けてきた。

「…アトピーでね。こうなった。」
「…大丈夫?」
「…うん。」

最低限のやり取りをした後は、
特に周りが触れてくることはなかった。

私はその日から積極的にみんなと会話する事もなく
静かに教室で授業を受けていた。

「はーい、プリントを前から後ろにまわして」
先生からの指示で前の子から渡されたプリントを
後ろの席の子へ渡そうと、勢いつけて体を捻った。

すると、背中の灼けるような感じの中に痛みが走り
白い体操着の下で巨大な膿が弾けたのだ。

そこから流れ出た黄緑の膿が服の上に染み出し
体操着はベタベタになってしまった。

やがて少し血混じりになり、明らかに白い体操着の
色が変わっていった。

先生に言って保健室へ行き、もらった絆創膏を
触られたくなくて、何とか自分で貼ったものの
時間が経つと、膿の量が多すぎて絆創膏から
にじみ出て、体操着と皮膚がくっついてしまった。

脱ぐ時にお湯を掛けつつ、ベリベリとひとつひとつ
時間を掛け剥がしていかねばならなくて。

すると、痛みとともにまた出血して
膿や浸出液を拭き取ると、傷痕はえぐれ
膿の大きさ陥没していて、クレーターのようだった。



思うように動かせない不便さよりも、お風呂が
何よりも本当にひどい苦痛に耐えなきゃならない
時間で。
嫌がりつつも痛みに耐え、泣きながら入っていた。


ちゃんと洗っているか、風呂場へ確認しに来た母が
身動きできず小さく体育座りでしゃがんでいた私に
後ろから容赦なくお湯を掛けてきた。

それに食いしばって耐えていた私は、堪らず
「痛い!なんでわかってくれないんだよ!?」と訴えたその言葉に、母は
「知らないよ!わかるわけ無いじゃん!
だって、お母さんはアトピーになった事ないもん」
とそう言い残し、居間に戻っていった。

ひとり静まり返ったお風呂場で私は
家族に聞こえないように声を殺して泣いていた。

投げられた言葉を、頭では
「わかりっこないか、親も別の人間。
一番身近な親ですらもそうなら…」と理解しつつ

どうしようもなくやり場なくて爆発した想いと諦め、
先の見えない絶望感で押し潰されそうだった。




──その経験から数十年が経ち、
私の人生の転機となる偶然の大きな出会いがあった。


共感を期待しなかった為、自ら積極的に話す事を
してなかったが、近くの整体院である方と出会った。


その女性は少し年上で、私が痒みで寝られない事や
熱が体内に籠もりやすい事など伝えると

朝起きて体やベッドに付いた血の跡や浸出液の臭いで“またやってしまった”と自分を責めたり、親から怒られる事から毎日が始まる。

そんな気持ちや経験を、「私もでしたよ。」と
静かに大きくうなずきながら共感してくれた。


このような事は、私だけではなかった。


その方は父親から
「掻いたりするのは、集中力がないお前が悪い。
気が弛んでいるからだ!」

海水を何度もバケツで浴びせ掛けられ、同様の
大きな膿ができて、その後クレーター状の肌
になった経験までもが一緒だった。


アトピーが理由で寝られず、朝起きられないことや
掻くことを止められないことで人格を否定したり
その方を責めた。

ずっと理解しあえなかったご両親とは進学を機に
実家を出たまま、就職とともにそのまま縁を切り
こちらの近くで家庭を持ち、暮らしていた。



私はこのエピソードが共感してもらえた事が
数十年と抱えながら生きてきて、初めてだった。

心の中で何か重石のような、ずぅっと鎮めていた
奥底にある想いに針の穴程度にすっと空気が通り

やっと底の方で吸えるようになったような感覚で、
もっと、もっと、と話に夢中になっていった。
 この出会いを通して、もしかしたら他にもまだ
居るんじゃないだろうか?

未だ増え続ける患者の中に、もしかしたらいま
まだ苦しんでる人が居るんじゃないだろうか?

これを人前に出て誰かに話していかねば、
このまま一個人の体験として流され、活かせぬまま
周囲から病気への理解が得られないんじゃないか?

「ひとりじゃない」と、伝えていかなきゃならない。


──海がわたしに、生きる目的を与えた。



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