いわゆる「ギフテッド」の支援について
はじめに
「ギフテッド」には明確な定義が存在しない。表題に「いわゆる」とつけたのは、そのためだ。だが長いので、以下では省略として「ギフテッド」と示す。世間でそう呼ばれている人たちと考えていただいて構わない。ギフテッドに対する支援について、思うところを述べたい。
実像の周知こそが前提
しばらく前に、『ギフテッドの光と影』(*1)という本を読んだ。いちばんの感想は、「影」の部分(当人にとってのデメリット)が思ったより多いということだった。「ギフテッドを支援しよう」という試みが国をあげて為されつつあるが、ギフテッドに対しては一般に、「光」の側面ばかり見ている人が多いのではないかと思われる。彼らに対する支援の前提・土台となりうるのは、何よりもその実像が周知されることであろう。ならばもっと、「影」の側面を強調して良いぐらいではないだろうか。ギフテッドとして生きることは、相当に辛いことのようだからである。
実像とイメージとの乖離
ギフテッドという言葉が与える印象は、一般的には「なんでもできる天才」のイメージではないだろうか。前掲書を読んでもわかる通り、実はそれほど甘いものではない。ギフテッドとして生きるデメリットも囁かれているものの、「普通とは違う」「変わっているだけに凄い」「何かしてくれる」といった文脈で語られているようだ。こうした期待はおそらく彼らにとって、ただの重圧に過ぎない。ギフテッドであることには先天的にも後天的にも、負荷がかかると考えたほうが正確だ。そしてそうした実像を示し、不正確な憧れや期待を排したほうが世の中にも、彼ら自身にも実りがあるだろう。
実際のギフテッドたち
このように記すのは、実像をいくつか見てきたからだ。筆者の知人友人には、そういった人々が数人いる。もう鬼籍に入った人もいるし、そうでない人も。差し障りの無い範囲で例を挙げる。数ヶ国語を解し、国家的な資格を保有する人。いくつもの高等教育機関を修了した人。ジャンルを問わず専門書を読みこなし、様々な遊戯に詳しい人。そのほか日常的に会ったことの無い方を含めれば、十人近くになる。そのほとんど全員が、ギフテッド特性に付随すると思われるなんらかの病を患っていたのだ。ギフテッドとして生きるうえでのデメリットが後天的なものであるなら、制度でなんとかなるかもしれない。だが、それらの病が先天的ならば、少なくとも根本的解決とはならない。どうすれば良いだろうか。
まずはギフテッド特性の理解を
彼らの特性が大きなヒントになると思われる。彼らは基本的に、「自分から学ぶ人たち」である。余計な干渉は、百害あって一利なしだろう。むしろ、いま「障壁」となっている問題を取り除くほうが先だ。たとえば『ギフティッド その誤診と重複診断』(*2)にも、学校のカリキュラム(の柔軟性の無さ)に辟易するギフテッド児の例が見られる。教育機関の融通の利かなさは、彼らにとって致命的な場合があるということだ。この問題の解決はギフテッドに限らず、たくさんの人々の利益になることだろう。そして、もし仮にギフテッドに対する支援先を設けるとしても、支援内容(教育、医療、心理、福祉、金融など)の詳細を具体的・明確に掲げるとよい。支援が必要な場合は、彼らのほうから申し出るに違いない。さらに専門家がギフテッドを研究するならば、主に病跡学(伝記や作品などから天才の精神病理を調べる学問)に頼ってはどうか。病跡学は傑出した人物を研究するが、主な対象は故人である。すでに成果を上げた人物を研究するほうが、サンプルとして間違いもない。加えて教育全体の敷居を下げて、万人が学びやすくすれば裾野は間違いなく広がる。あとは邪魔をしなければ、ギフテッドたちはほぼ一定の割合で生じ、勝手に育つだろう。
まとめ
ギフテッドに対して考えられうる支援案をまとめておく。
①デメリットも強調しつつ、正確なギフテッド像を周知させる。
②学校教育のカリキュラムに、もっと柔軟性を持たせる。
③支援機関を作るなら、その支援内容を明確に掲げる。
④ギフテッド研究は主に病跡学にて行う。
④教育全体の敷居を下げ、万人が学べる体制にする。
ともあれ、「有望株」を見つけて栄養を与えようとするばかりが支援ではない。まずは当事者たちの意見に、耳を傾けることではないだろうか。
(参考文献)
*1:阿部朋美・伊藤和行『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版・2023年)
*2:J.T. ウェブほか著 角谷詩織・榊原洋一監訳『ギフティッド その誤診と重複診断』
私の拙い記事をご覧いただき、心より感謝申し上げます。コメントなどもいただけますと幸いです。これからも、さまざまな内容をアウトプットしてゆく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。