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悟塔雛樹の!!「つれづれなる松葉ガニ」

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ファミコンと翻訳関係のものを除く、エッセイ一般をこちらにまとめました。表題には深い意味が……ありません。写真と動画もあるよ!
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先日、湯浅泰雄『ユングとキリスト教』(人文書院)を100円で入手。たまにはこういう、ラッキーなことがありますね。飛ばし読みだけど、3分の2は読めました。良書!

詳しくは書けないが、テキトーにつけたマガジン名に意外な偶然があって少しだけビックリした。

ユングも虐待を受けていたそうだ。ナチズムに共感したという説も、その悪影響からかもしれない。だが彼は創造的だったので、生に逆行する破壊衝動を相殺できたようである(フロム『悪について』)。筆者自身、破壊的な側面を創造的側面で少しでも打ち消したい。少しだけ、人生に希望が見えかけている。

狩猟採集社会で冷蔵庫など無い時代、果たして朝食を食べていただろうかと、武術研究家の甲野善紀先生が書いていらしたと思う。同様に、いつ獲物が獲れるか分からないわけだから「規則正しい食事」も無かったのでは。獲れた時に食べるのが自然で、規則正しい食事は農耕が広まって以降かもしれない。

グリム童話にはパターンとして、「ただ皆が死ぬだけの話」がけっこう多いらしい。大人には不可解だが、子供は割と喜ぶそうである。考えてみれば幼児は意味なく積木を積んで、最後に崩して喜ぶ。つまり壊すために創っているのだ。上記のようなグリム童話と積木には、何か共通の心理があるかもしれない。

バカリズムさんが出てくる夢を見たので書く。「バカリズム」(元はコンビ名)はおそらく升野英知氏が、「アフォリズム(格言・箴言)」を「アホリズム」と読み換えて、さらに「バカリズム」と変換したのだろう。さんざん言われていることと思うが、最近まで気づかなかった。反省。

単位の件は置いておいて、放送大学の『人文地理学からみる世界』を学習中。身につきますように。

歩道では歩行者の通行が優先だが、自転車と歩行者が歩道で向き合った場合も大抵、歩行者が道を譲ると思う(自転車側がベルを鳴らすことも)。また歩道が狭く、バス停などで人が集まっている所でも降りようとしない人がほとんど。自転車道が無いからだが、時に危険なことが「常識」化しているような。

先日、歯医者に行った。とても良い先生だが、それでもこちらが緊張する日もある。一度、虫歯の治療中にハチャトゥリアンの「剣の舞」が聞こえて来た。口の中でドリルが回転している状況。えーと、歯医者で流してはイカンBGMでは…。ひと言「しんどい曲です」とお伝えした次第。

「ゴレンジャー」のお面

四十年以上前、父と近所の夏祭りに行った。お盆で、公民館の敷地が会場だった。いくつも夜店があって、市民たちはグラウンドに設えられた櫓の周りで盆踊りを始めていた。当時「あとの祭り」などということわざを、筆者が知っていたかどうか。 幼少期の私は、よく女の子に間違えられていた。それでも筆者が好きなのは男の子向けとされる少年マンガや戦隊もので、特に当時流行りの「秘密戦隊ゴレンジャー」は、大のお気に入りだった。 説明しておこう。この番組は石ノ森章太郎原作の実写特撮もので、悪の怪人をゴ

無意識に、特定の相手にハラスメントを繰り返す人がいる。相手の反応を確かめる強迫行動であり、実は甘えているのだ。不安定な人に多いが、簡単に虐待に発展するため被害者は逃げるべき。子供が関心のある異性に「ちょっかい」を出すのと同じ心理である。幼少期から家庭でも学校でも、よくあった話。

光の逆が闇であり、闇の逆が光だとする。光と闇が乖離すると、それぞれの力が却って強くなってしまう。個人の内面のレベルでは、無意識の闇を自覚することだと思う。社会のレベルでは、「界面活性剤」のような役割の人間が必要かも。そういう倫理観で生きている芸能人も、いらっしゃるのかもしれない。

投影は自我の防衛機制の一つだが、対人関係そのものでもある。友人だろうと親子や恋人だろうと、人間は必ず相手に何かを投影している。自分が相手に何を投影しているかを少しでも自覚し、できるだけ相手を客観的に捉えようとする試みを「投影の引き戻し」と呼ぶ。離別を含めて、関係改善に繋がりうる。

今日はスマホを十分に充電しないまま、外出した。モバイルバッテリーを持っていたから、大丈夫だろうと高を括っていたのだ。だが、モバイルバッテリーを充電し忘れていた。2つとも、ただの重いカタマリ(泣)。あと1パーセント…。