私は割と金属バットが好きである

もう題名の通りなのであるが、私は金属バットが好きである。
だが別段金属バットはとてもボールが飛びやすいから、とかが理由で好きではない。なんならホームランは試合の中で一本でも出ればいい希少なものであるからいいものであるし、それをたくさん出そうとする今の流れは正直に言えば嫌いである。
それでも金属バットが好きなのである。

では高校野球が好きなのか。
はっきり言えば嫌い寄りになる。高校野球そのものはたまに観戦するが、あれを「青春」という色眼鏡を通してみるのは正直理解できない。まるで高校野球にしか「青春」がないように言ってしまうメディアや多くの大人がはっきり言って嫌いである。そこからたくさんの人生があって、その中で関わってくる野球をないがしろにしているように映るからだ。高校野球より先の野球は青春ではない、とでも言いたいのか。過度なアマチュア信仰は正直に言って嫌いだ。

さらに言えば高校野球で金属バットを使っているからと言ってだから何だとも思う。
高校野球で金属バットが導入されたのは1974年。金銭的負担の大きい木製バットに変わって使われるようになった。そしてその反発力に目をつけたのが池田高校野球部と蔦文也、そしてやまびこ打線であるのは言うまでもない。
その後高校野球のスタンダードになっていった。

金銭的負担。
これが私の金属バットで一番気に入っているところである。

「野球は金のかかるスポーツ」
とは今更いう必要もないだろう。
ボールとスパイク、しいて言うならゴールキーパーグローブさえあればなんとかなってしまうサッカーと違い、購入するものが多い。
ボール、グラブ、スパイク、バット。もう少し掘り下げたらヘルメット、キャッチャーになればもっと多くなる。
ただでさえ金食い虫なのにこれらは消耗品と来たからたまったものじゃない。私たちの意志に反してこれらは平気で破れ、折れ、使い物にならなくなる。それだけで野球の続行がしんどくなる。
金銭的事情から野球をやめた、という人も少なからずいる。他のスポーツが金銭的な負担がないとは言わないが、それでも野球というスポーツは金がかかる。

だから金属バットが好きなのである。
確かに金属バットも一応摩耗していくのだが、それでも折れるリスクがないだけでも価値がある。曲がってもなんとか打てる。これほど価値のあるものを知らない。

こう書くと言われそうだ。
「そんな曲がったバットを使うやつなんていない」
「折れないだけでバットは買い替える」
確かに一里ある。
だが、それは正直に言えば日本やアメリカといった裕福な国だけや家庭の話ではないか。

SNSをやってよかったと思っていることがある。
それは日本やアメリカ、韓国や台湾以外の野球を知る機会がかなり増えた事である。
中々スポットライトが当たらない欧州や、日本の海外青年協力派遣隊が育てているアフリカ。ドミニカ、メキシコ、プエルトリコくらいしかないと思い込んでいた中南米にもニカラグア、ブラジルにも野球があることを知れる。
アジアではパキスタンやインドが野球を行なっていることを知れる。フィリピンももがきながら少しずつ前進している。
チェコスロヴァキアの野球がWBC以降注目されるようになったのは読者も知るところだろう。こういう「存在していたものの知ることがなかった野球」を知る機会が非常に増えたのだ。

そういう国たちにも多くの事情が見え隠れする。
金はあるけど投資は行わない国があり、そもそもそんな余裕すらない国がある。選手はいるけど練習では各々着たい服を着ている。練習風景はまるでメジャーリーグのオールスターみたいなキャップ、ユニフォームだらけだったりする。パンツに至っては半ズボンになっていたりもする。
赤土の上でボールを必死になりながら追いかけている様々な肌の色をした選手が駆け回っている姿を見ると、野球振興の意味を少しだけ考えたくなってしまう。

我々は野球の土壌を百年以上育ててきて、経済的にも裕福な国だから何でも言えてしまうのである。
金属バットより木製バットのほうがいい、とか簡単に口にしてしまうのだ。
金があるから。裕福だから。

特にアフリカやパキスタンの野球を観ていると、改めてそういう経済負担を減らせないかと考えてしまう時がある。
野球用具なんて手に入れる方が難しいのが実情だ。なんなら欧州でさえ野球ショップなんてあれば大儲けというようなところだ。中南米からメジャーを経由せずにやってきた選手のグラブがどこのメーカーかすらわからないなんてのは珍しい話ではない。どこから流れてきて、どこで手に入れたのか。それが世界の野球を取り巻く環境だ。

理解は増えつつあるし選手も増えているが、それを維持する力はまだまだ陸上やサッカーに遠く及ばない。

北海道独立リーグの旭川ビースターズにウガンダの野球選手、カスンバ・デニスが入団したが去年、この動画で一躍有名になった。
これに関しては私は観た当初から懐疑的ではあったが、野球用具が手に入りにくい環境というのは間違いなく、アフリカという土地も手伝ってこのような自己プロデュースが成り立ってしまうくらい野球と道具という現実を見せられてしまう。

野球は知られてきているが、道具がない。
よしんばあっても手に入りにくい。さらに言えば摩耗するから維持しにくい。
野球振興に関してはこのような弱点を持つのだ。

そこで金属バットなのである。
前述したように金属バットがあれば野球は何とか成り立つ。折れない、というのはこれ以上ないほど強い意味を持つ。野球がまだ周知されていない国では尚更だ。
なんなら一本あれば選手全員使いまわせる。最悪相手に貸し出せばその金属バット一本で試合が形成できてしまう。

さらに言えばボールだって布を丸めたものだっていい。確かに野球ではなくなるが、1970年代のプロ野球で長嶋茂雄に憧れた少年が「ろくむし(三角ベースのような遊び)」でサードを守って遊んだからこそ多くの名選手を生んでいる。山田久志、小林繁。彼らは小学生の頃みんなろくむしでサードベースを守りたがったことを書籍やコメントで残している。
野球大国には野球ごっこがあったのだ。野球ごっこで遊んだ多くの小学生が野球の専門家となって球史に燦然と輝く歴史を刻んでいったのだ。
それはグローブも、なんならちゃんとしたボールすらいらない。バット一本あればなんとかなってしまう。そこが昭和のプロ野球大国を形成した一要因なのだ。
野球に親しんだ世代がいたから我々は今日の野球大国日本を甘受できるのだ。

しかしそれはバットがなければできないのだ。
ボールをバットで打つ。こんな単純なことができないと野球の振興など起きないのだ。ただ金がやたらかかる裕福層だけが出来る厭味ったらしいスポーツが生まれてしまうだけだ。

だからこそ金属バットなのだ。
ボールを打たなければ野球は始まらない。カートライトルールの頃からそれだけは変わらない。投手が投げなければ野球は始まらないが、打者がいなければ投手の存在は意味をなさない。打ち合って21点取った方が勝ち、という野球古のルールに野球の原点を見るのだ。
だからバットが野球の基礎なのだ。
折れないバットがあれば、それに越したことないではないか。

なにより金属バットは日本とかなり深い縁がある。
金属バットが発明される過程には日本の大本修が大きくかかわっていると言われる。日本発、とは言えないにせよ、まぎれもなくメイドインジャパンの一翼に金属バットがある。
軟式球と金属バットは日本の発明品だ。
そういう意味でも金属バットは日本の発明としてどんどん前に出していいのではなかろうか。

高校野球ではやっと低反発性の金属バットが使われ始めた。
木製バットとは打った感触は違うかもしれないが、過去の金属バットよりは幾分か近づいているはずだ。全く同じになる日はこないにせよ、人間の文明文化は近づくことを容易にするはずだ。

だからこそ私は金属バットが国際大会の基準にならないかと思っている。
バット一本あれば国際大会にも参加可能である。この言葉にどれだけ存在価値があるだろうか。現実的には不可能かもしれないが、0.00…に那由多の数0が並んでも最後に1がつけば可能性は生まれる。
そんな夢を一瞬だけでも観れるのはまさしく野球振興の真骨頂ではなかろうか。
プロが多く絡むWBCは木製バット限定でいいにせよ、アマチュアのU大会などでは積極的に金属バットを振興していっていいのではないだろうか。

私は金属バットが割と好きだ。
それは日本とアメリカとその周辺国だけという認識のものであった野球が本格的にワールドワイドになりつつある今、新たな野球振興を掴むチャンスであるとここ数年とみに思うからだ。

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