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野球少年の愛するもの、グローブの歴史を書く

 1876年、イリノイ州クック郡シカゴ。アメリカ東部でも最大の経済拠点となったここに一人のメジャーリーガーがスポーツ用品店を作る。
 アルバート・グッドウィル・スポルディング。
 ボストン・レッドストッキングスですでに204勝も挙げていた彼はこの二年後、252勝、勝率.750という数字とともに引退。元メジャーリーガーのいたスポーツ用品店が世界にスポーツ用品を販売する事に従事することになる。
 その彼の大きな発明品の一つにグローブがある。
 人間の手に打球は強すぎた。そのために突き指などの怪我も多い嫌いがあった。
 グローブの形状は指先の空いた革の手袋を両手にはめたもの。掴むための道具ではなく、飛んできたボール取る時のダメージを和らげるものであった。それは1877年、メジャーリーガーの大半が使用する事になり、1890年には野球の常識としてグローブをつけるようになった。

 そこから現在まで、様々なグローブが開発され、野球をする上では欠かせない道具となった。そんな野球をする上では誰もが憧れる道具、グローブ。
 永遠の野球少年たちのあこがれの歴史を追いかけてみたい。

1,グローブ誕生から20世紀に入るまで

1885年のグローブ特許。両手用意されている事がわかる。(英語版wikipediaより)

 1870年、シンシナティ・レッドストッキングスの捕手、左手を負傷したダグ・アリソンが鹿革、いわゆるバックスキン製のキッチンミトンをつけて試合に出たのがグローブのはじめとされる。
 当時はまだ上から投げるpitchが許されていない、ベアハンドキャッチが当たり前の時代。とりたてて必要性がなかった。まだ野球が打つスポーツの、いわば穏やかだった頃のお話。打ちあがって地面に落ちたボールを拾って投げ返す頃のベースボールにはまだ必要性がなかったのだ。

 翌年、シンシナティ・レッドストッキングスはアメリカ初のプロ野球機構である全米プロ野球選手協会NAPBBPの発足と選手のチーム契約に伴い解体。レッドストッキングスのオーナーであったハリー・ライトがボストンにて現在のアトランタ・ブレーブスになっていく。
 その時、ハリー・ライトと共に投手を務め、ボストン・レッドストッキングスのエースとして台頭してきたのがアルバート・スポルティングだった。
 彼自身はグローブをつけてプレーする事は良しとしなかったものの、彼がシカゴに行った後に作るスポルティング用品店を興すのと同時に方針を変換。1877年にはほとんどのメジャーリーガーが愛用する事になるグローブの販売を始める。

 彼は選手としても一流であったがそれと同じくらい商売に対する興味が強かった。彼は1888年、世界戦略としてスポルティングのスポーツ世界一周旅行を銘打ち、そこで道具を提供。メンテナンスや販売などの足掛かりを作っていく事になる。

  日本にベースボールが伝わったのが1872年、現在の東京大学に当たる第一番中学に在籍していたホーレス・ウィルソンが教えたとされる。まだ野球がスローとヒットの要素で構成されている時代のものだ。そのためバットとボールで構成されているスポーツであったとみてもよい。いわゆる投手が上から投げるpitchがアメリカで執り行われるようになったのが1884年以降である事を考えるとその姿はもっと原初の姿であっただろう。

 ただ、1890年には野球をするアメリカ人にはグローブを持つことが常識化してきており、旧制一高等学校野球部と横浜アスレティッククラブが試合を行っているがすでにアスレティッククラブの選手にはグローブをつける選手がほとんどであったということから、もうアメリカでは常識化されたものだと思っていいだろう。
 年代を考えてみてもボールおにごっこのような形ではなく現在のベースボールに近い形になっていたことは相違なさそうだ。

 ここからでも分かるのだが、本来は怪我防止など、どちらかと言えば痛めないためにつけていたグローブが常識になっていくのと同時に投手が上手でボールを投げる、throwからpitchへの時代に進んだとみてもよかろう。道具の進化がルールの進化につながっていったという見識を持つのも現在の野球を形作る要素に加わっていたとみてもよい。
 また、1880年代に絶大な力を持っていたスポルティングがスポーツにおける用具の世界戦略でグローブが大きな存在を得ていたのは想像に容易だ。
 1890年の日本にいるアメリカ人にすらグローブを持っている事が常識であったことを考えても1870年代後半から1880年代にかけてのグローブ普及率は高いものであったと想像され、それが後々のグローブ史につながっているとみてもよさそうだ。

 ここから本格的にグローブの物語は始まっていく。

2,20世紀初頭~グローブの原型完成~

1905年、スポルディングのグローブ広告(英語版wikipediaから)

 野球のグローブが外のスポーツのグローブと異なった形で構成されている事は三点か。
 一点目は革で構成されている事、二点目は片手でつける事、三点目は親指と人差し指の間にウェブがついている事だろうか。

 この三点の要素が揃ったのが20世紀に入っての1900年代。元々キッチンミトンからスタートしていたグローブは両手に着ける選手もいたのだが1900年代には片手でつけるものが主流となっており、指先まで包むようなものに変わっている。また、手のひらを包む程度のものであったものが本格的に手をすっぽりと収めるようなものに変化している。
 だがこの時点ではまだ五本指が動くものになっており、あくまでまだミトンなどの一般的なグローブの形から大きく進化するものではなかった。

 1887年、ジョージ・ローリングスとその弟アルフレッド・ローリングスがセントルイスで立ち上げたローリングス。
 1920年そのローリングスのもとに一人の投手が声をかける。
 ビル・ドーク
 スピッテン・ビルと呼ばれたスピットボーラーにして彼が考案したのはグローブにウェブをつけてみる事。
 ここに於いて初めて現在のグローブの形が出来上がる事になり、ここからグローブは五本指に親指と人差し指にウェブをつけたものが本格的に台頭していくことになる。

bill doak。彼の言葉から現代グローブの基礎が揃った(英語版wikipediaより)

 日本においては大阪、大阪北区にて水野利八と弟利三が起こした美津濃商店が1913年にグローブを販売。1920年には田中運動具支店から独立し、ボール生産をしていた玉澤啓三が玉澤バット店からグラブ・ミットを製造開始。

 ここにおいて、現在のグローブにおける三大要素が野球としてアメリカのみならず日本にも確立されることになった。

3、戦後のグローブ ~進化するグローブと世界を席巻する日本の新しいグローブ~

 ここから大きく進化するのは戦後に入ってから。
 1950年代から手袋のようにまっすぐだったグローブが曲線を帯び、俗にいうポケットが意識されたデザインになっていき、現在の形に進化していく。
 すでにミッキーマントルの頃にはグローブはポケットが意識されたデザインに変わっていたようだ。一方で1949年のヴィクトルスタルヒンの写真からも分かるように日本のグローブは1950年までは直線型のグローブであることを考えるとポケットのあるグローブが出来上がったのはアメリカでと見た方がよさそうだ。

トンボ時代のヴィクトル・スタルヒン。(1949年)グローブはまっすぐだ。(wikipediaより)

 戦後から日本ではグローブ市場が加速していく。
 戦前より活躍していた玉澤、イソノ、渡辺運動具店(現ゼット)だけでなく1946年には佐々木恭三が起こした佐々木運動具店が1950年にエスエスケイ(現SSK)として、1947年にはミツワタイガー。

 1956年にはグラブ作成など野球用品を産業にしていた奈良県・三宅町が輸出を開始しているなど日本のグローブも世界に飛び出している。1950年代後半には日本も今の形に収まったとみてもよいだろう。

阪急ブレーブス、米田哲也(1956年)。この時点ではもうポケットのあるグローブになっている(wikipediaより)

 こののちの大きな進化は日本が起こすことになる。
 mizunoが1973年、ワールドウィンを発売。その翌年にポジション別グローブを販売することになっていく。
 mizunoは1934年からすでにグローブからキャッチャー専用に開発したキャッチャーミットを開発。世界のグローブ事情に際立つ存在だったのだが、戦後から1970年代にかけてポジション別グローブを開発。
 丁度その頃は日本のプロ野球が長嶋茂雄、王貞治らの活躍による読売ジャイアンツV9があった時期。1957年には全国高校野球選手権が朝日放送テレビで放送開始、1971年には江川卓フィーバーが巻き起こるなど、日本の野球のノウハウが完成しつつある頃でもあった。
 その中でポジション別グローブ、1976年ワールドウィン、いわゆる赤カップの登場など、グローブ産業が本格的に台頭していくことになる。
 かのシンシナティ・レッズの一番打者にして通算最多安打記録を持つとされるピート・ローズがmizunoのワールドウィンを使っていたのは有名な話だ。

 明治大学、全大阪の遊撃手にして大阪の野球メーカーを作った久保田信一が1934年に興した久保田運動具店こと現久保田スラッガーが1968年にグラブの型付けを開始。硬いグローブを柔らかくするだけでなくポケットにおけるスイートスポットを作る、という考えがここで生まれている。
 また、mizunoに遅れず1977年にはポジション別グローブを開始するなど、日本のグローブ文化が本格的に世界を席巻していくことになる。

 1985年にはミツワタイガーの専属工場をしていた平野製作所の畠山忠久が独立して株式会社ハタケヤマを立ち上げ。ミットではゼットと並び二大メーカーと言われるほどの信用を得た。

 こうして日本はアメリカの古豪メーカーに負けない、グローブ一大拠点となったのである。

4,グローブの都、三宅町の現在

 最後になるが、軽く触れた奈良県三宅町を紹介しなければならない。
 日本のグローブメーカーの多くは関西に集結している。ミズノ、ゼット、SSK、ミツワタイガー、スラッガー、ハタケヤマ。近年ではドナイヤで有名なヤマモトスポーツ。大半が関西のメーカーで、玉澤やイソノと言ったメーカーが珍しいほどだ。玉澤に関しては芝浦運動協会や読売ジャイアンツなど大きなかかわりがあるが、ここでは省略しよう。

 その関西を支える拠点の一つが桜井市から三宅町の奈良県になる。

 有名なところで言えば例えば王貞治が愛用したグローブの一つにロベンクスがあるが、このメーカーもまた三宅町のメーカーである。また、金田正一の400勝グローブを作った事で話題になったアントラーもここだ。
 また、知る人ぞ知る大ベテランのグローブスミスがいたトップマンや、一部ネットで「安くていいグローブを作れる」と話題になったアサダスポーツなど、着道楽ならぬグローブ道楽ならば一度は通いたい場所がここ三宅町なのだ。

 ただ、今この三宅町のグローブ産業が非常に厳しいものとなっている。
 理由としては二つだ。一つはスミスの継承が出来ていない事。もう一つはグローブの制作環境が日本からアジアに変化してしまい、産業が成り立たなくなっている事だ。
 元々1970年代のドルショック、オイルショックで大きな損害を受けた当町だが、現在はアジアから作られた低コストのグローブが市場を席捲しており、購入する人が減っている現実がある。
 また、スミスのなりてがおらず、技術の継承が出来ないまま廃業を検討、事実ロベンクスに至ってはスミスも引退し、完全に廃業に近い状態になってしまった。かの王貞治も愛したと言われるメーカーを手に取る事は出来なくなってしまったのだ。

 そんな三宅町は今グローブ事業が100周年を記念して、改めてグローブや野球用スパイクなどの野球産業を町おこしをしている。メーカーは主に野球工房iプラスのysf、アサダスポーツ、吉川清商店のbro'sだ。ふるさと納税でグローブがもらえる、と聞いてふと思い出す人もいるかもしれない。その三メーカーだ。
 また、アントラーは横浜DeNAベイスターズのネフタリ・ソト選手とアンサバダー契約をして売り上げを伸ばそうとしている。
 三宅町のグローブメーカーはまだその灯を消すまいと必死になっている。

 日本が一大産業にまでした野球メーカーもどんどん巨大メーカーを除き、中小のメーカーがどんどん潰れていく時代。ヤマモトスポーツのドナイヤや岐阜県のますかスポーツが出したryuといった活躍筋もあるが、やはり一大産業であったここが消えるのは惜しい。

 人々から忘れ去られようとしているが、それでも、と必死に輝こうとしている町がある事を忘れてほしくない。そしてもし自分が一人の野球道楽だとしたら、ふと思い出したようにで構わないから、三宅町に寄ってほしいと思うのだ。

 野球少年たちのあこがれはいつでもスター選手がつけているグローブだ。
 日本がこれだけの輝きを見せている中で、消えようとしながらも消えまいと必死になっている世界もある。
 そんな日本のグローブに幸あらんことを、と願うばかりだ。

〈参考資料〉
スポルティング公式サイト
ローリングス公式サイト
ウィルソン公式サイト
ミズノ公式サイト
スポーツ玉澤公式サイト
イソノ運動具店公式サイト
ゼット公式サイト
ミツワタイガー公式サイト
SSK公式サイト
久保田スラッガー公式サイト
ハタケヤマ公式サイト
ヤマモトスポーツ公式サイト
Antler公式サイト
スポーツTOPMAN公式サイト
三宅の匠ホームページ
ますかスポーツ公式ホームページ

野球殿堂博物館公式サイト
baseball reference
野球グローブ生産100周年事業実行委員会

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【奈良県は野球グラブの一大産地!】三宅町におけるグラブ生産の歴史(賃貸のマサキ)
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