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「福祉の人」は見えない生きづらさには関わらない、という問題。

「その人が変わろうとしない限り、私たちは何もできない。だから、支援会議に出席しても意味がないと思う」

福祉行政で働く若い担当者の発言。

「ヤングケアラーだとしても、家族も本人も私たちの機関の対象ではないので、見守りは難しい。何をすればいいかわからない。」

地域包括支援センターの専門職の発言。

「いじめの話を聞いても学校からの相談がないので、関わらない」

スクールソーシャルワーカーの発言。

これらの言葉は会話の一部だが。そうはいっても、感じとるのは、自己責任論、申請主義、分断という感覚がのこる。
「問題は私たちの組織の対象外です。」という排除。関わらない姿勢。
問題を起こす人に自らの責任や改善を求める。自分たちの組織の範疇ではないと切り捨てる。
問題を一面的にしか見ない。助けてと言わないから助けない。一組織の完結。

今に始まったことではないが、同じ福祉関係者だと思って近づいて、痛い思いをする経験、唖然とする言葉の一部を並べてみた。いづれもいわゆる世間的には福祉の現場で働く、福祉を扱う人たちの言葉だ。

理解している人もいるかと思うが、「福祉の人」すべてが、福祉(ソーシャルワーク)の専門性があるわけではない。福祉は、ソーシャルワーク技術、価値、倫理が基本だけれど、経験則や、組織の仕事として、見えてるものだけに対応している姿に出会うことは以外と多い。
ソーシャルワークの価値からいえば、困っているか、いないかという本人からの訴えだけではない、見えない「生きづらさ」や「生活の中の大変さ」を見る事から始まる実践であり、社会の繋がりの中にいて、組織の中の葛藤を抱えながらも福祉専門職としてそこにいる。

「福祉の人」と呼ばれている人たちの中には、残念ながら、相手が生活の中にいる権利を持った人間だということに気づかない人がいる。そして、地位や経験則や自身の思い込みの価値観を元に活動するという非専門性が更に地域の分断を煽っていることを懸念している。こんな福祉の現場で起きている、なんとも言えない不寛容さはさらに不気味ともいえる。

がっかりしながらも、福祉の人たちにソーシャルワークの価値を伝えていく、巻き込んでいく、僅かなアクションを続けることは私自身が後悔しないために。

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