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短編小説「けものみち」
あなたが幼い頃に住んでいた家は小学校の隣にあって、春には運動場をぐるりと囲む満開の桜がよく見えた。
あなたの家で飼っていた年老いた雑種犬は、空から地面に落ちる物、例えば雨や雪や、庭に降り立つ雀の群れ、そういった物を眺めるのが好きで、桜の花びらがはらり、はらりと降り頻る季節になると、一日中、窓際に寝そべり過ごした。
飽きもせず、窓ガラスに鼻を押し当て桜が散るのを眺める犬の背中にあなたが「何が楽しいの?」と呟くと、返事の代わりに犬は、ふん、とひとつ鼻を鳴らし、窓ガラスがわずかに白く曇った。あなたが三年生に進級して最初の日曜日の午後だった。
◇
あなたの通う小学校は田舎にあって、時々運動場を動物が横切る。あなたのクラスの子供達は皆が動物好きで、教室の後ろのロッカーに置かれた水槽では、クラスの男子がどこかで捕まえて来たオタマジャクシや、ナマズなどが絶えず飼われていたし、そのお世話をする飼育係は倍率の高いくじ引きで決められた。
そんなクラスだから、運動場を横切る動物を窓際の席のクラスメイトが見つけ、「あっ」と声を上げればたちまち授業は中断された。
猫は、あなた達の視線に素知らぬ顔で優雅に通り過ぎて行く。タヌキはのんびりだ。立派な雄のキジが「ケーン」と高鳴きした時のあなた達の大歓声。犬が疾走する姿を見て誰かが「オオカミみたい」と言い、別の誰かが「もう絶滅したんだよ」と言った。
「この小学校は昔は山だったんだよ。運動場の辺りにその時の獣道があるのかもね。そう、け、も、の、み、ち。うん、動物の、そうだね道路」
担任の先生がそうあなた達に教えてくれ、「さ、授業再開」と窓際にすし詰めのあなた達に向かってひとつ手を叩いた。
◇
すっかり足腰の弱くなったあなたの犬は、赤信号機で止まるたびに地面に腰を下ろす。県道の少し長めの信号では前脚を交差させ、そこに顎を乗せて寝そべった。あなたはその横にしゃがみ犬の背中をそっと撫でた。
去年産まれた隣の家の赤ちゃんの髪の毛は、少ししっとりしていて柔らかい。その家で飼っていた猫を撫でた時の感触に似ていた。犬の背中の毛はごわごわしていて、肩車された時に触ったお父さんの髪の毛みたいだ。以前はよくお父さん、お母さんと三人でこうして犬の散歩をしたものだけれど、最近はあなたひとりだ。犬もいるし慣れた道だから大丈夫、大丈夫とあなたは思った。
信号が青に変わり、「いくよ」と犬の背をぽん、と叩く。横断歩道を犬の歩調に合わせてゆっくり渡る間、担任の先生が教えてくれた「動物の道路」と言う言葉をあなたは思い出し、くすくすと笑った。
運動場のはじっこに動物にしか見えない信号機がある。信号機が青に変わるのを桜の木の根元に隠れ動物は待っている。信号が青に変わると動物達は優雅に、のんびり、時には全力疾走で獣道と言う横断歩道を渡り、それぞれの目的地へ向かうのだ。
そうした想像にあなたの足取りが軽くなると、ピンッと伸びたリードを窮屈そうに犬は見上げ、いつもの様に、ふん、と鼻を鳴らした。
◇
図工の授業参観日、あなたは運動場を横切る横断歩道と、それを渡る動物達を描いた。満開の桜と横には歩行者用信号機。立ち止まった人、歩き出す人のマークは犬の姿に変えた。
その年の夏前に犬は死んでしまって、夏休みにはあなたの両親のリコンが決まった。あなたはお母さんと引っ越す事になり、あなたの描いた運動場の絵は、後ろのロッカーの上に貼り出されたまま置いてきた。そのまま転校してしまったので、授業参観に来られなかったお父さんも、お母さんも、あなたがどういった絵を描いたのかを知らず仕舞いだ。
◇
駅からひとり暮らしのアパートへ歩いて帰る道すがら、信号を待っていると桜の花びらが一枚、目の前を落ちて行った。交差点に面して小学校があり桜がはらり、はらりとその花を散らしている。
就職を機に移り住んだこの町がどういう土地だったかはもちろん分からない。まさかここら一帯が山の中だったと言う事はないだろう。それでも何故か道を挟んだ向かい側に、信号機が青に変わるのを今か今かと待っている動物達があなたには見えるようだった。
転校の前の日、あなたは誰もいない教室に貼り出された自分の絵に、死んでしまった犬を描き込んだ。桜が散るのを眺めるのが好きだった犬は、今もこの季節には運動場を走り回っている。春が来るたびにその姿を頭に思い描き、誰かの「もう絶滅したんだよ」と言う声が聞こえると、あなたは、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。
信号機が青に変わる。待っていたかのように、夜風が横断歩道に降り注いだ桜の花びらを舞い上げ、そのままあなたの横を通り過ぎて行った。
あなたは一度だけ小学校を振り返り、また前を向いた。
桜の花びらが舞い散る獣道を踏みしめて、それぞれの目的地へとあなた達は歩き出し、そうしてもう振り向かなかった。
(了)
本文2000文字
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