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短編小説「無精卵」

 あなたが目を覚ました時、あなたの下着の中にはふたつの生卵が並んで入っている。あなたはそれをさして不思議とも思わず、ずらした下着の隙間から割らないようにそっと取り出した。
 鶏卵とほぼ同じ大きさ、形状をしていて、まだ乾ききっていない体液に濡れ、しっとりとした手触りの殻は僅かに乳白色。産みたての卵の殻はまだ柔らかい。あなたはその事を、養鶏場で働く人たちよりも知っていた。
 そのふたつの卵は、紛れもなく、卵生のあなたが産んだ卵なのだから。

 あなたはふたつの温かい卵を胸にいだき、ベッドの隣で眠っている彼を起こさないよう注意して、冷たいフローリングの床に素足をおろす。何かの間違いで抱えた手のひらから卵が転げ落ちたとき、カエデ材がむき出しの床では卵はひとたまりもないだろうし、くしゃり、くしゃりと乾いた音と、濡れた音の混ざったそれは、きっと彼を起こしてしまうだろう。そういった緊張感とフローリングの冷たさは、とてもよく似ているとあなたは思った。
 
 ステンレス製のザルに一度ふたつの卵を収め、着替えの為にキッチンを離れるその間も、あなたはずっと卵の事を気にかけている。正確には、その卵で作る朝食のメニューについてを。
 バターは切らしていた。もしバターがあれば、弱火で溶かしたバターが香り立つその中に、塩と胡椒で少し味付けした溶き卵を落とし、その匂いと音とで彼が目を覚ます、そんなスクランブルエッグを作るところだった。赤いケチャップは、少し湯煎する。
 卵かけご飯もいいかも知れない、とあなたは考えた。今朝はふたつも産まれたのだから、お米は少し多めに炊いて丼ぶりでもいいかも知れない、と。細ねぎを刻んで乗せて、めんつゆを少々。

 初めて彼が口にしたあなたの卵は、そうやって湯気立つ炊き立てのご飯の、中央のくぼみに落とした生卵だった。
『これを、キミが?』と彼は聞いて、あなたは『無精卵だから気にせず食べて?』と言い『その方がその子も喜ぶと思うから』と付け足した。
 彼はそれをあなたの冗談だと受け取った。あなたはあなたで、曖昧に笑う彼の目を見てそう理解した。彼はまだ寝ぼけているような、それともホテルの食堂で朝食を摂るゲストのような、そんな表情でぷくりと、ほぼ球体の卵の黄身に箸先を差し込む。黄金の川のように、割られた傷口から黄身は溢れ出し、僅かに生臭い匂いを漂わせ、しかし炊き立てのご飯のでん粉臭と混じり合うと、彼の脳の中では食欲に変換される。
 あなたはそれ以上は説明せず、出張の際、彼があなたの部屋に泊まった次の朝は決まって卵料理を作った。スクランブルエッグや卵かけご飯、目玉焼きに、料理と言って差し支えないのであれば茹で卵などを。
 毎回、避妊はちゃんとしていたので、間違いなく無精卵のはずだ。もちろん、絶対とは言えず、例えば何かの拍子に避妊具が破れてしまっていたとか、あなたが絶頂の後に果て、前後不覚の間に行為が行われていたとか、そういった不測の事態があり得ないとは言い切れない。しかし、それまでその様な兆候はなかったし、次の朝、あなたが産み落とす卵の数と、彼との行為の回数は等しかった。

 
 卵は、果たして生命いのちなのだろうか、とあなたは時々考える。受精していない卵は、あなたの身体から離れた時、例えば抜けた髪の毛であるとか、切った爪であるとか、そういった感覚ではあった。その反面、あなたの産道を通った卵はいつも温かく、手に持つと脈打っているかのようにも錯覚させた。当然、無精卵は最初の細胞分裂さえ起こさないのだから、心筋細胞ですらまだ発生していないにもかかわらず。そういえば、とあなたは子供の頃飼っていたセキセイインコを思い出した。
 メスのセキセイインコは時々、小さな、親指の爪くらいの小さな卵を産んだ。飼っていたセキセイインコはメスの一羽だけだったので不思議な事だとあなたは感じていた。中には卵づまりという症状を起こして死んでしまう事もあると、ずいぶん後になってから知ったが(その頃にはセキセイインコは寿命で死んでいた)あなたの飼っていたセキセイインコはいつも安産で、気づいたらお腹の下のふわふわの羽毛で、無精卵を温めていて、あなたは囀りながら卵を抱くセキセイインコを眺め、健気さや、単純に愛らしさを感じた。もちろん無精卵だから、いくら温めても雛が産声を上げ殻を破ることはない。
 しばらくして諦めた母鳥は巣から卵を落とす。鳥籠の下で小さな卵は割れて、黄身と白身を撒き散らして、それらの出来事はいつも、いつの間にか行われ全てが事後だった。

 あなた自身も、産み落とした卵を温めた事がある。高校生の頃付き合っていた同級生との何度目かの行為の後、あなたは初めて卵を産み、自分が卵生であることを知った。あなたはその事を誰にも話さず、産み落とした卵はそのままティッシュペーパーにつつみ、新聞紙でくるんで可燃ゴミの袋に捨てた。あなた達はまだ若く、好奇心や欲情に任せ、ひょっとしたら幾つかの有精卵も同じように捨ててしまっていたのかも知れない、と後になってからあなたは気づいた。そうして、あなたは産み落とした卵を温める事にした。
 ミシンでガーゼのポケットを作り、中には羽毛布団から抜いたグースの羽根を詰め、卵を入れ、肌身離さず服の下、首から下げ学校にも持ち歩いた。通学の際、混んだ電車の中で卵を割ってしまう事もあったし、体育の授業でどうしても身体から離し、戻った時には卵が冷え切っていた事もあった。
 胎教、という言葉を知って、あなたはブルートゥースのワイヤレスイヤフォンの片方をガーゼのポケットにそっと忍ばせた。甲高いメロディーラインよりも鼓動に近いのでは、と思ってベースラインをなぞる左側のワイヤレスイヤフォンを。
 首から紐で下げたガーゼのポケットはちょうどあなたの心臓の位置にある。電車内の混雑から卵を守るように制服の上から胸を両手で包み、車窓を流れる街並みを見るともなく眺めた。あなたの吐息が硝子窓をほんのり白く曇らせる。ベースラインの抜けたメロディーは、あなたの好きなアーティストの曲であってもどこか余所余所しく、不意に、あなたは乗る電車を間違えた様な感覚に襲われた。鼓動が乱れ、深く、長く息を吐くと車窓はますます曇り、どこに立っているのかさえ分からなくなりそうだった。動悸はあなたが胸に抱いた卵を通してあなたの両手にも伝わり、それとは別にワイヤレスイヤフォンがベースラインをなぞる振動も、あなたの手のひらの薄い皮膚を震わせた。目を瞑るとそれは足並みの揃わない雑踏のようで、ただその振動だけに耳を傾けていると、やがて動悸は収まって行った。
 もし胎生であったら、とあなたは考えた。もし胎生であったら自分の鼓動とは別の心音が、身体の中から聴こえてくるのだろうか。そうなのだろう。胎盤から伸びた細い管で身体の一部が繋がった小さな心臓が、自分の鼓動とは別のテンポで軽いリズムを刻む。そうした時、感じるのは異物が胎内にあるという不安感なのか、独りではないという安心感なのか。でもあなたにイメージできたのは、子宮の中で、胎盤から伸びたコードに繋がる有線イヤフォンが、ベースラインをなぞり小刻みに振動する姿だけだったし、数週間気を配り守ってきた卵は無口なままで、意を決して割ってみても、出てきたのは中途半端に温め続け、腐敗し、黄身の崩れた生卵だけだった。
 
 あなたは卵を温める事を諦めた。産みたて卵をボウルの角に当てて殻を破り、砂糖を小さじひとつ。菜箸で撹拌するチャッチャッとリズミカルな軽い音、卵焼き器に敷いた油が煮え立つジュウという音に合わせて、あなたはあなたの好きなアーティストの曲をハミングする。そうして作った甘口の卵焼きを、しかしあなたの恋人は食べなかった。あなたの恋人は軽度の卵アレルギーがあった。
 あなたは、あなたの卵を食べられなかった恋人を責めなかったし、なんの責任も負わせなかった。無精卵なのだ。それでも、その恋人との行為の後であなたが卵を産むことはなくなってしまったし、卒業を境に疎遠となってしまった。その事はあなたの卵を巡る事柄になにも起因しない、とあなたは割り切っているつもりでいたが、潜在的には因果を感じている事を否定できない。あなたはそういった潜在意識に、そっと乳白色の殻を被せた。

 
 アルミ鍋の中で沸騰するお湯の泡に、ふたつの卵がコトコトと踊っている。着替えを済ましキッチンに戻ると、十二月の冷えた室温で、ステンレス製のザルに収めた卵はすっかり冷たく、乾いていた。卵料理のメニューにあれこれ考えを巡らせて結局、あなたは茹で卵を作る事にした。未だ起きてこない彼の好みはやや固めの茹で加減。それに塩や、マヨネーズをつけて食べるのを彼は好んだ。
 それはあなたにとっても好ましいことだ。彼は避妊にとても慎重だったし、卵料理が好きで、あなたの前でとても美味しそうにあなたの用意した朝食を口に運ぶ。そうして、彼が着替えてそそくさと帰ってしまわなければ、産みたて卵でクッキーなど焼くのもいいかも知れない、とあなたは考え、同意するように鍋の中で卵がコトッと音を立てた。生地には卵黄しか使わないが、焼く前に照りを出すために、料理用の刷毛でクッキー生地に卵白を薄く引く。
 そういえば、マヨネーズも卵黄から自家製できるはずだ。油とお酢、塩を入れて泡立て器でかき混ぜる。それをサラダにかけてはどうか。薄く焼いた卵を挟んだホットサンドに固茹でした卵、それに少しいいコーヒーを入れてモーニングセットみたいに、ちょっと豪華に。そうだとして、どれくらいの卵が必要なのだろうか。
 そうした想像はあなたを楽しませた。そうとなれば、あなたは彼が帰った後すぐに出かけ、ホットサンドメーカーやエッグスタンドを探さなければと考える。どこに行ったらいいのだろうか、ロフトかIKEA、東急ハンズ辺りだろうか。あなたの想像はアルミ鍋の中で転がる卵のように自由に踊った。
 あなたのそうした考え方や過ごし方は、あるいは人に眉を顰めさせるかもしれないが、その一方では正しい。あなたや、あなた達は薄い殻に閉じこもる無口で、決して結実しない蛋白質なのだ。柔らかい殻の中で微睡み、あなたは産声を上げない雛のように夢を見ていい。あなただけはその夢を誇っていい。あなたを、肯定する。
 
 茹で上がるまで、ふたつの卵は鍋の中で踊り続けた。立ち上る湯気に前髪を丸めたあなたは、楽しげに踊る卵に向けてハミングする。
 胎教のように。
 話しかけるように。

(了)

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