短編小説『バス・マナー』
ある日の朝、バスを待つ列の中にイザワさんの姿を見つけた。
栗色に染めたショートボブ。ショルダーバッグがずり落ちそうな撫で肩、だけど凛とした立ち姿。間違いなく彼女だ。
「おはよう、珍しいね。今日はこれで?」
「うん、たまには違うルートも試してみようと思って」
挨拶をすませた俺はイザワさんの四つ後ろ、列の最後尾にまわった。
イザワさんは前にたびたび、俺の通勤ルートについて聞いてきた。「バスに乗って何分くらい?」「バスには座れる?」「バス停からすぐ?」「バスは遅れたりする?」などなど。特に「職場で同じバスに乗っている人は他にもいるの?」という質問は何度も受けた。人見知りの激しいイザワさんには最重要項目らしい。
「ひとつまえのバスに資材部のヤノさんが乗っているくらい。たまにダイヤが乱れ同じバスになるけど」
まちがいなくイザワさんにとっては、職場の人となるべく会わないルートのほうが理想なのだろう。
バスのことを聞いた翌日には、同じバスを使うのかと思いきや、そのまま。そしてしばらくして彼女はバスについて聞いてくる。それのくりかえしが二週ほど続いていた。俺もまた「同じバスで通勤しようぜ」などという性格ではなく、孤独が好きなほう。相手から来るぶんには受け入れるが、自分からは誘わないスタンスだった。
※
バスが到着し、乗客が乗り込んでいく。イザワさんは二人席の窓際に座った。彼女の隣はあいている。俺は少し迷ったが、離れた席に座った。だって隣に座ると、けっこう密着するわけだし、カーブや坂が多いし、それなりに肩が触れるし、それも十五分近くもだし、そもそも彼女は既婚者なわけだし、ちょっと図々しいというか、チャラいやつに思われるのではないか?
バス停から職場までのわずかな時間、俺が道案内をするかたちで少し前を歩いた。途中、車道を横切らないといけないのだが、一人の時と違って緊張した。交通量はしれているのだが、無理な横断をすれば彼女を危険にさらしてしまう。
職場の昼休み、イザワさんは俺が隣の席に座ってこなかったことをミハラさんに訴え、頬をふくらませた。内心、気にしていたのか。かわいいとこあるじゃねえか。
「え、そうなの? どうして隣にいかなかったのよ」
ミハラさんは上機嫌な顔をして、肘で小突いてくる。ザ・オバはん的なミハラさんにとって、この手の話は大好物なのだ。
「いや、だって席がせまいし、隣に座るのはちょっと、意識しちゃうじゃないですか」
「それって、好きってことじゃないのよ。もう、やだぁ」
「あなたはすぐにそういうことを言う」
「冗談、じゃあん」
ミハラさんはくねくねと身をよじらせた。イザワさんはミハラさんのエモーショナルな動きを見て、半笑いになっていた。そして俺の視線に気づき、しょうがないね、というふうに二人で笑った。
※
隣に座らなかったことは不問にされ、ちょうどいい距離感で通勤することになった。遠すぎず近すぎず、適度な会話量。穏やかな日々が続く予定だった。だが、なんの前触れもなく、ヤツはやってきた。
ある朝、俺たちのバスは一人の男に蹂躙された。刃物を持ったバスジャックではなかったが、蹂躙されたという表現が的確だろう。
その男は高音で叫んでいた。怒りや嘆きというよりも、むしろ喜びで。そしてライブハウスの観客のように垂直に飛び跳ね、我がもの顔で車内を徘徊していた。「バスが走っている間は立ち止まってください」そんな基本的なルールが流れているのに、空いている席はたくさんあるのに、彼は座ってくれなかった。
ヤンキーやDQNのたぐいではなく、三十代ほどの知的障害者だった。眉毛が立派なのもあるが、パッと見た感じコリン・ファレルに似ていただけに、無口でないのが残念だ。
彼に遭遇したのはじつは初めてではない。俺が一人で乗っていたころは頻繁に見かけていた。そのときも騒がしかったが一人なので気楽だった。両耳にイヤホンをつっこみ、バンプオブチキンを爆音で流して、窓の外を見ていた。だが、今は一人ではない。イザワさんがいる。守るべき人がいる。
三ヶ月ほどまったく見かけなかったので、俺にとっては過ぎ去った過去となっていた。が、まさかこのタイミングで。俺とイザワさんが甘酸っぱい関係を築き上げたタイミングでやってくるなんて。
やっかいごとは、たいてい過去からやってくる。
「いやぁ、すごかったね。なかなか刺激的な朝だったよね。今日の彼、ブルー・ハーツのボーカルのようにアグレッシブだったよね」
俺はバス内の出来事をなんでもなかったかのように茶化してみた。今日のできごとは些細な笑い話だよね。だから明日も同じバスに乗ってね、と。
「そう、さながらコンテンポラリー……」
「まったくもう、本当に迷惑だったよね。ああいうのを一人でバスに乗せないでほしいよ」
だが、イザワさんは予想以上に怒っていた。内に怒りを溜め込むことなく表出させていた。実にわかりやすくプンスカ怒っていたのだ。
翌日、イザワさんは乗ってくるのか危惧したが、彼女はバス待ちの列にならんでいた。ホッとしたのもつかのま、五つ目のバス停でバス男も乗ってきた。ただ、誰かに注意されたのか前日に比べると格段におとなしくなっていた。前日の騒がしさポイントを90とするなら、この日は40といったところだ。もっとも、くしゃみが大きいオジさんでせいぜい15なので(俺の物差し)やかましいことには変わらないけど。
「今日はだいぶおとなしくなってたね。続編でパワーダウンするハリウッド映画みたいだったね」バスを降りるなり、俺は嬉々としてイザワさんに駆け寄った。
「うん、ちゃんといい子にしてたね。うるさいけど、あれくらいなら我慢できるよ」イザワさんはほんのり笑っていた。
それからの俺はバス男をこまかく観察した。小ネタにより、イザワさんを笑わせることができれば、彼女は嫌がらずに同じバスに乗り続けてくれるだろう。
絶え間ない観察により、ちょっとしたイベントが発生した。たとえばこんな会話があったりした。
「今日、彼がバスに乗るまで母親が見送っていたね」
「うん、わたしも気づいた。お母さん、運転手にお辞儀していたね」
「そう、バスが出るときにお母さんは息子に手をふっていたんだけど、息子がもう見てないにもかかわらず、ずっと手をふっていたよ」
「なんかいいね、そういうの」
「うん、いいよね」
と、朝からほのぼのとするときもあるし。
「今朝は拳を握って両手を上下に振るような動きをしていたよ。たぶん昨日、カラオケに行ってマラカスをふっていたんだぜ! そういう動きだった」
「そういや、マスクもしていたよね。はしゃぎすぎてノドをやられちゃったんだね!」
などと勝手な憶測を働かせてみたりした。
「イザワさん、ちゃんと見てた? 今日はね、バスに乗り込む時、激突しそうな勢いで乗り込んできたよ。ステップにおもっくそスネをぶつけてたし、近くにいた女の人がめっちゃビックリしてた」
「そりゃ驚くよね。私、後ろにいたからぜんぜん気づかなかった。見たかったな、それ」
以前のイザワさんならプンスカ怒っていそうなことでも、彼女は笑うようになっていた。
そして、ついにイザワさんは
「ねぇ、今日はいつものバスに乗らなかったじゃん。今日ね、大変だったんだよ。彼、運転手の帽子を触ろうとしてめちゃくちゃ怒られてたの!」
仕事の最中にもバス男の話を持ち出すようになってきた。
そして、ひと月も経過するとイザワさんは
「なんか最近、あの人のテンションがフナッシーみたく思えてきたよ! 昔、大好きだったんだよね。フナッシー」
などとニコニコと笑っていた。
ファースト激怒はどこにいったものやら、俺はイザワさんの適応力にただただ驚くばかりだった。
そしてこのバス男は俺とイザワさんのあいだに、職場の誰も知らない共有の秘密という絆を与えてくれた。
いつかはこの『ごっこ遊び』みたいな恋愛感情もフェードアウトしていくのだろう。どろどろした執着を抱かずに綺麗に終われるのなら、それに越したことはない。
そんなことを考えながら、俺はほんの少しだけ歩くスピードを落とし、彼女の真横を歩く。
完
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