読書感想文:『喜嶋先生の静かな世界』
私は半端者だ。心変わりが激しく、あれこれと興味を移していく。多趣味と名乗れば聞こえは良いのかもしれないけれど、詰まるところは責任を背負うのが怖いだけだ。何かを続けていれば、自然と責任がついて回る。そういう社会の中に私たちは生きている。それが恐ろしくて仕方がない。だから、ひとつのことを続けていくことから逃げている。同時に、そんな困難な道を歩いていく人のことを尊敬と憧憬の眼差しで見つめている。
職人のような生き方に憧れる。富とか名声だとか、そういった外部からの評価には目もくれずに、ただ自分が作り出す世界にのみ向き合う。一つの道を究めるために途方もない時間と労力を捧げたのだろうと、その尊さに思いを馳せる。私にはできないし、きっと多くの人ができないことであるから、それを尊いと思うのだろう。
本の題名にもその名前が掲げられている喜嶋先生は、そんな側面を持っているように思う。出世することに興味を持たず、ただ自らの研究分野に没頭する。先生の言葉を借りれば、「学問の王道」を歩んでいる。
先生に薫陶を受けた主人公も、同じように学問の王道を歩んでいた。だが、家庭を持ち、学問ではない生活が人生に占める割合が増えていったことで、いつしかかつてと同じようにはいられなくなった自分に気付く。
人は社会の中で生きることから逃れられない。生まれ落ちてしまった時点で、どうあれ社会というシステムの中において「与えられるもの」としての存在を背負わされる。この世は等価交換で成り立っているというのなら、借りたものは返さなければならない。愛という負債を背負った状態ではじまる人生とは、すなわち呪いを解くための道行きと呼んで差し支えない。
社会から逃れようと思っても、自己という存在の形成に社会の寄与するところは大きい。社会を否定するということは、そのまま自らの基盤となるものを危うくする行為でもある。そうやって何かを躊躇っているうちに、段々と透明な怪物に絡めとられていく。いつしか自分も、遠い昔から続いている巨大な機構の部品になっている。
人は手にした果実を容易には捨てられないようにできていて、それは知らず与えられた社会の恩恵であっても変わらない。今更なにもかも捨てて生きていくことなどできない。縋りついていられるうちは、なんとかしてそこに居座ろうとしてしまう。
つまるところ、私の目に映る社会というものは、どうすることもできない化物のようなものだ。そんな化物の背に乗って、私たちは生きている。生かされている。
だから、その背中を降りて、ただ真っすぐな道を歩いていく人の姿は、あまりにも眩しい。
自分の中にそのようなものの片鱗を探してみると、社会とかそういうしがらみを知らずにいられた頃が、一番その状態に近かったのかもしれない。それも、単に振り返ってみたときの無責任な感想にすぎない。きっとその渦中にいた頃は、何かに夢中になっているという感覚すらなかったと思う。客観的に見ればなんでもないことだけれど、そのときはただ、世界が開いていくのが楽しかった。そのときに錯覚した世界の果ての輝きが、今も胸の内で燻っている。
いつからか、世界の果てに行きたいと思うようになった。きっと、その場所は静かで、純粋なもので満たされているのだと、そんなことを思っている。
道を究めることなどできはしないけれど、静かな世界への憧憬だけは、きっと消えてはくれない。
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