日記:『シン・ウルトラマン』を見た
※『シン・ウルトラマン』のネタバレを含みます。
嘘みたいに綺麗なヒマワリ(?)があった。時期には早くない?
画像から花の名前を検索できるアプリで探してみても「ヒマワリ」としか表示されなかった。しかし一般的なヒマワリとは形が違うように思える。特に中心の部分。こんなに膨らんでいただろうか。画像を調べてみてもよくわからない。
でも綺麗だからいいか……。
昨日もそれなりに帰りが遅くなってしまって、そういえば土曜の午前に予定が入っていたなと思って確認したところ、どうやらそれは日曜だったらしい。しかも日曜の午前は歯医者の予定が入ってしまっている。やってしまった。申し訳ない……。おかしいな……ちゃんと確認したつもりなのに……。
そういうわけで、土曜の午前の予定が空白になった。今週は疲れていたのもあって、ひたすら惰眠を貪るのも悪くない気がするが、そういえば『シン・ウルトラマン』が公開になっていたことを思い出す。思い立ってしまったら、それをどうにかしなければ気になって仕方なくなる。そしてどうせ見に行くのなら朝一番の回がいい。「映画を見たい」という自分の欲求に対して、最大限の努力を払うとするのなら、それは最速の時間帯になる。思い立ったときから一番近い時間帯が、自分にとっては最良のように思えるからだ。そういう極端な手段をとってしまう悪癖がある。朝早いとか眠いとかそういう考えは二の次になっている。
朝一番の回で『シン・ウルトラマン』を見てきました。
自分はウルトラマンに明るいわけではない。子供の頃に少しだけ見た記憶が朧げに残っているだけだった。それでも、『シン・ゴジラ』はゴジラをまったく知らない身からしても面白かったし、昨年東京で行われていた庵野秀明展を回った際に、その特撮に対する思いの一端を垣間見たような気がしてから、ずっと気になっていた映画だった。あとは、インターネットでいろいろと言及が増えそうだから、その影響で自分の中に色眼鏡ができてしまう前に早めに見たかったというのもある。
見始めて、「ウルトラマンはこういう話だったのか」ということを改めて知った気がする。なんとなく「ウルトラの星からやってきたウルトラマンが怪獣と戦う」くらいに認識を持っていたものの、「人間と融合して戦うときに変身する」ということまでは知らなかった。というか、うっすらと知識としては頭の隅に存在していたのだけれど、実感を伴って知覚したのははじめてだった。
終盤に登場した存在も、名前だけは知っていたので、「ここで出てくるのか!」とちゃんと知識があるわけでもないのに興奮していた。そして、もちろん実際にテレビで放送されていた『ウルトラマン』を見たことがないので推測だけれど、「ウルトラマンの感情の動きがちゃんとわかる作りになっているな」と思った。子供の頃の朧げな記憶を掘り返してみても、自分にとってウルトラマンは正義のヒーローで、その内面に揺れ動く感情というものにはまったく目が向いていなかった。子供なので仕方ないのかもしれないし、テレビシリーズでもそういった側面はちゃんと描かれているのかもしれないが、少なくとも当時の自分は「ウルトラマンが何を思って人間のために戦うのか」なんて考えもしなかった。正義の味方の気持ちを、それに守られる大衆は思いもしないのだ。
この映画におけるウルトラマンとっての正義の理由とは、人間という種に対する親愛の情であり、つまりは「好きになった」ということに尽きる。異なる種族に対して親愛を抱いてしまったから、自分の星の規則に反し、自らを犠牲にしようとも人間を生かそうとする。そこには良くも悪くも種族の壁を挟んだエゴイズムがあって、それは人間から見た他の生物という構図に置き換えることで普遍性を持つようにも思える。でもそうやって一般論に拡大したところで、所詮は「自分が何をしたいか」という話であって、そしてウルトラマンはそうしたかったから人間に肩入れした。それがたまたま正義に見えていただけ。そういう意味で、ウルトラマンが抱く感情の動きに親近感を覚える思いもあった。非人間的な正義の味方などではなくて、等身大の感情を持った存在に感じられた。
そして守られる立場であった人間も、だからといって無力感に苛まれるわけではなく、それを乗り越えて未来に希望を持って行く姿が描かれる。神様みたいな存在がいて、自分の力がそれに到底敵わないような気がしたら、前へと進む気持ちも失せるかもしれない。それでも石を穿とうとしてきた人たちがいて、その積み重ねが人間としての叡智を成している。だから希望を失うことはない。途方もない道のりでも、それでも前に進もうとすることにきっと意味はあるのだ。そうした魂の在り方が、何かを変える力の一つになるのだと、そういうふうに思う。
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